指定年月日 平成四年七月三十日
所 在 地 久喜市小右衛門五一六
慶長九年(一六〇四)江戸幕府は、大久保長安に
命じて東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道
中の五街道をはじめとして、主要街道に一里塚を築
かせた。
江戸の日本橋を基点として、一里(約四キロメー
トル)毎に塚(土盛り)を築き、その上に欄などの木
を植えて道のりを表し、伝馬制度に大きな役割を果
たしたほか、旅人の休憩所にも利用された。
道中奉行所が作成した「五街道分間延絵図」
のうち、日光道中を描いた「日光道中分間延絵図」
にも、この一里塚が描かれている。
「この塚は、幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村
にあったものである。
現在、塚の上には、昭和初期に付近から移築
されたという弁財天堂が建てられている。
塚の高さは西側から約二メートル、東側(道路
側)は約0・六メートルで、塚の形体と当初の広
さを残し、当時の姿を偲ぶことができる。
久喜市教育委員会
平成二十五年三月二十一日」