木曽十一宿には、本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ置かれていた。本選は江戸時代の初めに定められたが、脇本陣は交通が頻繁になった中期以降に設置されていった。
脇本陣はその名の通り凡人を補完するためのもので、三留野宿では代々宮川家が務めた。宮川家はまた三留野村の庄屋を務め、本陣西尾鮎沢家、問屋の勝野家などとともに指導的役割を担った。宮川家のあるこの周辺が、江戸時代の三留野の中心部であった。
なお三留野宿は明治十四年(一八八一)の大火によって全焼し、現在の建物はそれ以降のものである。
平成十二年十一月三日