紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

寒念仏橋供養塔

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案内板
「 寒念仏橋供養塔

安中市指定史跡
昭和五二年一二月二二日指定

板鼻宿の念仏講中が寒念仏供者で得た報謝金を蓄積し、享保七年(一七三ニ)に石橋を改修し、旅人の利便に供した。
その後年月を重ねて破損したので、享和二年(一八〇二)板鼻宿の木嶋七郎左衛門が亡父の遺志を継ぎ、堅固な石橋に改修し、その近くに供養記念塔を建て、後世に遺したものである。地元ではこの石橋を『かねつ橋』と呼んでいる。

正面
「坂東
秩父
西国 橋供養 」
右側面
「享和二年壬戌春三月
木嶋七郎左衛門毘頼」
左側面
「奉若先考遺命夙夜欽念不敢廃肆須石于
問埜爱建斯橋煙享既往攸詣関西既山東
佛陀於橋上永祷行渡聊立石記歳月」
裏面
「 信州伊奈郡福嶋村
石エ
三澤染右衛門吉徳 」

この塔が建てられた直後に、中山道を旅した太田南畝、別名野山人がその著『壬戌紀行』の中で、『板鼻川の橋を渡れば板鼻の駅 むげに近し。駅舎をいで、麦畑の中を行けば石橋あり、新建石橋、木嶋七郎左衛門供養塔といえる石たてり。げに累々たる石佛をつくらんよりは、橋たてし、功徳はまさりぬべし」とほめている。なお、この供養塔は国道十六号の拡幅工事のため板鼻堰用水路沿いにあったのをわずかに現在地に移動したものである。

安中市教育委員会


供養塔の左側面の二行目の後半「 詣関西既山東之」の後ろから四文字目は、此処では「既」 と書いてありますが、変換できなかっとので暫定的に「既」としてありますが、左側面に刻まれている文字は「既」ではなく、「既」の下側に「旦」という字です。上が「既」下が「旦」という、一文字です。