いつもNAVIより
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社伝によると、天徳元年(957)、京都の石清水八幡宮から勧請。当社の正式名は「八幡宮」だが、「やわたの八幡さま」と呼ばれ、また、古くから一国一社の八幡宮として広く崇敬されていた。
永承年間、源頼義が奥州征伐のおり、当社にて戦勝祈願。康平年間、頼義の子・源義家(八幡太郎)が戦勝の奉賛として社殿を修築し、以来、源氏の氏神として崇敬され、源頼朝は鎌倉幕府開設にあたり神田百町を寄進した。
(中略)
通常、一国一社の八幡宮は国府八幡宮、国分八幡宮などと同様、国府や国分寺の鎮守として祀られた八幡宮のことだが、当社の場合は、どういう理由によるものなのだろうか。
ちなみに上野国府は前橋市元総社町あたり、国分寺は高崎市東国分町あたりだとされているので、当社からは、やや遠い。
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