案内板
「 天照皇大神宮・洪水祈念之碑・射水神
・天照皇大神宮
全国に存在する天照大明神を祀る社で、建立年月などは不明です。祭は十月十四日に行われています。
・洪水祈念之碑
明治四十三年(一九一〇)、大洪水のた
め藤塚町は壊滅状態に陥りました。家屋
流失十八軒、半壊家屋五十数軒、浸水家屋十軒、溺死者二名、行方不明十名をえました。疫病の発生を恐れ歩兵十五連隊が派遣され、近隣の人々の協力により復旧が為されました。皇族からの見舞金、国からの援助により復村したことを後世に伝えるため建立されました。
・射水神
大正九年(一九二〇)、赤岩下が地滑り
をして確氷川を塞ぎ、人家や田畑に大き
な被害を与えました。村民は堤防を造
り、同十一年に村を守ることを願いこの
碑が建てられました。 」
いつもNAVIより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
社伝によると、天徳元年(957)、京都の石清水八幡宮から勧請。当社の正式名は「八幡宮」だが、「やわたの八幡さま」と呼ばれ、また、古くから一国一社の八幡宮として広く崇敬されていた。
永承年間、源頼義が奥州征伐のおり、当社にて戦勝祈願。康平年間、頼義の子・源義家(八幡太郎)が戦勝の奉賛として社殿を修築し、以来、源氏の氏神として崇敬され、源頼朝は鎌倉幕府開設にあたり神田百町を寄進した。
(中略)
通常、一国一社の八幡宮は国府八幡宮、国分八幡宮などと同様、国府や国分寺の鎮守として祀られた八幡宮のことだが、当社の場合は、どういう理由によるものなのだろうか。
ちなみに上野国府は前橋市元総社町あたり、国分寺は高崎市東国分町あたりだとされているので、当社からは、やや遠い。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑