紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

八幡宿 八幡神社について

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ふたつのブログを引用させていただきます。


「オコジョの散歩道」 (浅間山山麓千曲川の町、信州小諸を中心に東信濃の四季の自然のうつろいや、小さな歴史を中心に綴っています。)というブログより

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高良 (こうら)社・・・
祭神は、高良玉垂命(こうらたまたりのみこと)・・・

八幡神社の瑞垣門をくぐって、境内に入ると正面に旧本殿だった高良社があります。
八幡神社は武神として知られる八幡大菩薩を祀った神社ですから、八幡神が祀られていました。

現本殿を作るときに、旧本殿を破棄せずに高良社として、映して残したものとおもわれます。

今の本殿と較べると小さな建物ですが、本殿建立の時に残された棟札によると、高良社は室町時代の延徳3年(1491年)建立です。棟札の裏には、原文は漢字ですが、「そもそもかの八幡宮の御事、その始め数百歳を送るといえども、更に建立の始めを知らず。ここに滋野遠江守光重、望月御牧中悉く本意を致し知行をなす。その懇祈によって、かの宮をその砌みぎりに造立し奉るなり」とあるそうです。

三間社流造りで、屋根はこけら葺というシンプルなものですが、歴史的価値が高いと昭和17年(1942)に国宝に指定され、昭和25年(1950)には国の重要文化財となっています。

高良社・高良神社と呼ばれる社は全国各地にあります。

その由来には諸説ありますが、大きく分けると、二つの説があります。
一つは、本来は高麗(こうらい、こま)神社で、高麗人の神が、歴史の中で武内宿弥を祭神にした高良社になったというものです。
もう一つは、川原の地主神を祀る、川原神社が起源で、川原社が転じて高良社になり、全国に普及した八幡神社と結びついたといいます。

高良社は八幡神社の現本殿と較べると、素朴なそのものです。
時代の差なのでしょうが、このシンプルさの中の美の味わいは格別です。


現在の八幡神社の拝殿・・・

天明3年(1783年)の浅間の大噴火の年に建てられました。 
杮葺きの屋根や彫刻も含めて、落ちつきのある立派な拝殿です。

江戸末期の随神門と較べると次時代が早いためか彫刻は少なめですが、江戸時代の建物で、素敵な彫刻に飾られています。

八幡社由緒によりますと
貞観元年(859)、御牧の管理をしていた滋野貞秀による創建といわれ、吾妻鏡に 「 佐久八幡宮御前二十騎 」という記述があるのを見ても、武将の崇敬の厚かったことが分かる。 
延徳三年(1491)の滋賀光重の棟札に、 「 建立始望月御牧中悉致本意云々 」とあり、御牧七郷の総社であり、住民の総意で建立されたことが窺える。天正五年の修理、元禄十一年の葺替を経て、天明三年(1783)には本殿の建替えが行われた。 御祭神は応神天皇神功皇后玉依姫命である。』

本殿の鳳凰と鶏・・・

色々な動物たちや竹林の七賢人など素敵な彫刻が見られます。

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genbu.netより

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八幡神社

ここが八幡宿の入口だそうです。常泉寺は木々の奥の方にあるそうです。



道路に面して、南向きに鳥居が立っている。鳥居の右脇に社号標が立ち、鳥居をくぐると、巨木の聳える参道があり、正面に天保年間造営の楼門。参道の左手には、道祖神の石碑が並んでいる。
(注釈:ここに書かれている楼門が、入口案内板に書かれていた「随神門」です。)

楼門をくぐると、右手に古い建物。昔の社務所だろうか。
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参道を進むと神門があり、神門の奥が社殿のある境内。
(注釈:ここに書かれている神門が、瑞垣門です。)

参道の正面には、当社の旧本殿である高良社がある。この社殿は、室町時代・延徳三年の造営で、国の重要文化財に指定されている。

高良社の右手、東向きに当社の社殿。入母屋造の拝殿の後方に、流造の本殿がある。

本殿の後方には、多くの石祠や石碑が並んでいる。御牧七郷の総社らしく、多くの神々が祀られているのだろう。

社殿の北側は緑の芝生。東側は林になっており、清々しく広い境内。早朝、心静かに参拝するには最適な環境だと思う。

社伝によると、貞観元年、滋野貞秀公によって勧請された古社。当地を支配した望月氏は、望月の鬼門除けとして崇敬したという。

吾妻鏡』に「佐久八幡宮御前二十騎」と記されており武神として、また、御牧七郷の総社として、領民、領主、藩主から篤く崇敬され、度々の寄進や修理営繕を受けた神社。

旧本殿を利用した高良社について。武内宿禰(高良玉垂)を祀る社なので、八幡宮摂社に相応しい社なのだが、あるいは高良(コウラ)は、高麗(コウライ)からの変化でもとは高麗(コマ)、つまり駒(コマ)だったのかもしれない。であれば、信濃御牧(貢馬のための牧場地)に祀られる社としても相応しい。

高良社には三扉あり、それぞれに金の紋が付けられていた。

高良社に向かって、参道の左手、拝殿の向かいに小池があり池の中に厳島社が祀られている。

高良社の背後、境内の北側が芝生になっており、諏訪明神が祀られている。
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重要文化財八幡神社旧御本殿の高良社
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案内板
「 八幡社由緒
御祭神 應神天皇 神功皇后 玉依姫命

由緒
創建年月未祥なれど、伝承に貞観元年滋野貞秀公よる(ママ) といわれ望月三郎公は鬼門除の神として信仰されたという
吾妻鏡」に「佐久八幡宮御前二十騎」とあるを見ても当時の武将の 崇敬の厚かった事が偲ばれます。
延徳三年滋野遠江守光重公建立の棟札に「仰彼八幡宮之其 始雖送数百歳更不知建立始爰」とあり、又「建立始望月 御牧中悉到本意云々」とあり当時御牧七郷の総社 として七郷住民総発起の形で建立された事が考えられる。 その後、天正五年竹田信玄の臣武田佐馬助豊公、滋野 印月公、馬場遠江守信重、息女弥保姫等によって修理、 寛文四年酒井日向守公葺替、元禄十一年石川美作守公 葺替、さらに牧野藩主となっても代々崇敬厚く、元禄十六年、 享保九年、寛保元年、天明三年には康満公によって寺尾山、 諏訪山の用材を頂き、両佐久、上小諏訪、上州方面から も寄進と相まって本殿の再建立が行われ、旧本殿は、 高良社として祀られ後文化十四年、天保十四年、嘉永 七年、明治三十一年、昭和九年と営繕が行われ今日に 至っています。御神徳は古くより地方の守護神として 殖産興業、武神縁結び、その他深く厚く各方面の 人々に重く崇敬されています


重要文化財八幡社旧本殿高良社

一、 御祭神 武内宿祢公(神名高良玉垂命
一、 建立年月日 延徳三年九月三十日(西暦一四九一年
一、 国宝指定 昭和十七年十二月室町時代の遺構を良く示すものとして指定
一、 重要文化財指定 昭和二十五年八月(建第一〇三六号)
一、 解体復元 昭和四十年九月三十日(文化庁
一、 特徴 三間社流造こけら葺、庇門、手狭、木鼻の絵模様、その他共にすぐれた室町時代の特徴が現れている。 」



重要文化財八幡神社旧御本殿「高良社」について
創建年月不祥、伝承では貞観元年滋野貞秀公信濃の領所寺尾に八幡宮を城衆雄徳山より定須行者をもって勧請したと云われ、延徳三年(西暦一四九一年)(野遠江守光重公が中心)の棟札に、「抑彼八幡宮之御事其始雖送数百歳更不知建立始」とあり、数百歳前は、平安初期になるので、伝承の裏付けとなる。尚棟札に「建立始、望月、御牧中悉致本意云云」とあり、御牧七郷の綜社として勅旨牧周辺の住民によって建立されるまでに崇敬されていたことがうなずける。

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