紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き22日目の2(伏見宿から太田宿への道)

二度目の中山道22日目の2
2020年10月28日(水)の2


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伏見宿本陣跡】

9:59 本陣跡(公民館前)
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伏見公民館でトイレをお借りしました。

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案内板
伏見宿

中山道五十番目の宿場となる伏見宿は、御嶽宿の開宿から約90年後に整備されました。近くには木曽川の水運を利用した新村湊(しんむらみなと)から多くの物資が運び出され、賑わいをみせていました。現在は、わずかながらに残る古い町並みや本陣跡碑などが、往時の名残をとどめています。また、西坂には槍ヶ岳開山で知られる潘隆上人(ばんりゅうしょうにん)の名号碑が残され、人々の暮らしのなかにあった信仰の一端を知ることができます。

御嵩町御嵩町役場町づくり課」

10:07 一本松公園
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ここにもトイレがありました。


【旧伏見宿郵便と多鞠庵】

10:09 旧伏見郵便局と多鞠(たまり)庵
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「日本歴史街道岐阜県17宿中山道散策ガイド」より

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旧伏見郵便局舎を利用したミニ観光案内所で、中山道往来の休憩所として多くの旅人が立ち寄ります。 地域交流の場としても活動を展開しています。

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旧伏見郵便局の右隣は古民家カフェの多鞠庵です。

10:11 灯籠と道祖神
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10:13 名号碑(潘隆上人建立)
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【可児才蔵生誕の地】

10:14 正岡子規句碑
「すげ笠の生国名のれほとゝぎす」
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可児才蔵生誕の地(正岡子規句碑と同じ場所です)
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可児才蔵、実は知りませんでした。

mag-japaaan.comより

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関ヶ原の戦いで一番の手柄をたてた、しかしマイナーな可児才蔵】

慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原の戦い。決着は1日で決したものの、誰が一番の武功をあげたのか気になるものです。

そこで調べてみると驚くことに国持大名でも結構な碌をもらう武将でもなく、福島正則に仕えた一兵卒の身分であった可児才蔵(かにさいぞう)であることがわかりました。

しかし、可児才蔵と言われても誰?って思う方がほとんどかと思います。

ということで今回は、可児才蔵とは何者なのかを有名なエピソードを交えて紹介します。

[粋なパフォーマンスでついたあだ名は「笹の才蔵」]

才蔵は天文23年(1554)に生まれます。はじめ才蔵は斎藤龍興に仕えますが、斎藤家の滅亡と共に織田家の家臣柴田勝家明智光秀などに仕えます。

転々と主君を変えてきた才蔵は天正10年(1582)に起きた甲州征伐では森長可に仕え、16の首級をあげます。しかし、16も持つことは出来ないので3つだけ長可のもとへ持って行き、残りは口に笹を含ませ目印としました。

もちろん、3つしか持って来ていないので疑われるのですが、笹のことを伝えると長可は才蔵の武勇を褒めたたえました。才蔵はこのことをきっかけに「笹の才蔵」と呼ばれることになります。

ちなみに「ささ」という文字には笹と酒(さけのさを重ねた)の2つの意味が当てられます。

このことから笹を口に含んだということは酒を口に含んだという意味合いにもなり、最後の手向けとして酒を与えた才蔵は敵にも敬意を払っていたことがわかります。

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こちらの絵は、可児才蔵と旧旅籠三吉屋を描いたつもりだったのですが、この絵を描いた時点では、旧伏見郵便局の隣の古民家(現在は古民家カフェ多鞠庵)が旧旅籠三吉屋だと思って描いたところ、この建物は登録文化財であることは確かなのですが、実はここは松屋山田家住宅だったそうで、旧旅籠三吉屋ではないそうです。


10:16 セブンイレブンでトイレをお借りして、シュー・ア・ラ・クレームと缶コーヒーで休憩しました。

10:31 弘法堂
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10:32 上恵土神社
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10:39 上恵土本郷西交差点で迷いました。
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目印のトヨタがなかったため、曲がるところがわからなかったのです。

10:43 可児市に入りました。
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【恵土の一里塚跡】

10:54 ラーメンうま屋など
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10:54 地下道
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10:54 恵土の一里塚跡
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中山道一里塚の跡 これより約30メートル東」


11:03 加茂市公設卸売市場
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この辺りに辞世塚があり、11年前に来たとき、印象深かったのですが、移転してしまったのでしょうか。見当たりませんでした。

そもそもが一ヶ所に集められた石碑群で、謂れについては何も説明もなかったものなので、工事などがあったら簡単に移されてしまいそうです。

11:08 中山道踏切を渡りました。
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11:13 開運北辰妙見菩薩
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11:16 可児市今渡大東歩道橋
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11:26 教会かと思ったら、結婚式場でした。
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今渡神社と龍の枕石】

11:30 今渡神社
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名前からして、渡し場近くの神社ですね。

11:32 龍洞寺 龍の枕石
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石碑
天正年間(今から凡そ四百年前)

龍の枕石

当寺起縁の名石と伝わっている 」


11:36 右へ
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11:37 富士浅間神社
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【太田の渡し跡】

11:38 渡し場公園
昔の渡し場と中山道と、今の橋の地図の碑がありました。
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11年前は川縁まで下りて、今渡(いまわたり)の跡を見ました。今渡の渡し場跡の碑には、こんな言葉(歌でしょうか)が刻まれていました。
「木曽のかけはし
 太田の渡し
  碓氷峠がなくばよい」

川を渡った反対側は太田の渡しと言います。


11:39 太田橋を渡ります。
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11:48 分岐 土手道へ
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11:52 多分、太田の渡し跡
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「ぎふの旅ガイド」より

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「木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」と俗謡にも唄われた木曽川の渡船場跡で史跡碑が建ち、石畳の一部が残ります。

平成6年に河底から大規模な珪化木群が発見され、一帯は化石林公園として整備されています。

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【水辺の彫刻と、古井の一里塚跡】

土手下の公園らしきところに何か見えました。彫刻みたいです。

11:57 彫刻 左 アメンボー
右 Water pieces(水の断片)
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案内板
「 彫刻 左 アメンホーク
右 Water pieces(水の断片)

美濃加茂市では、1988年以来、『文化香るまち』『清流と彫刻のまち』をテーマに美濃加茂彫刻シンポジウムを実践してきました。
木曽川国定公園に面すこのライン沿いには、この作品を含め、6作品が同シンポジウムにより、設置されています。それぞれの作品は、水辺のふさわしいテーマ素材で創作され、とてもさわやかな印象を与えています。
美濃加茂市

アメンホーク
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12:00にビッグベンの鐘の音が流れ、こだましてずれて聞こえて、重厚なメロディーでした。

12:00 古井(こび)の一里塚跡
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江戸から九十八里目。文化会館脇にあります。文化会館は外装工事中でした。

中山道ブログをいくつか拝見していると、土田の一里塚跡、と書いてあるものがあります。伏見宿が新たに設置されたことにより、土田(どた)宿が廃宿され、土田の一里塚に代わり、古井の一里塚が新設されたそうです。

土田宿は廃されたというので、町自体が寂れたのかと思ったら、中山道としては廃されたけれど、後に上街道の宿場に移行されたそうです。

上街道とは、wikipediaより

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上街道(うわかいどう)は、江戸時代に中山道名古屋城下を結んだ脇往還(街道)。「木曽街道」、「名古屋往還」とも呼ばれていた。

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古井の一里塚跡が見える土手道のベンチでランチしました。
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階段を降りた右側にある、文化会館横の公園のトイレをお借りしました。中が花崗岩で綺麗でした。


二度目の中山道22日目の3(太田宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/01/132515



二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003