紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き22日目の3(太田宿)

二度目の中山道22日目の3
2020年10月28日(水)の3


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岡本一平終焉の地】

15分ほど休憩後、また出発。

土手の塀に市民の作品?が並んでいました。
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12:35 岡本一平終焉の地
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岡本一平は漫画家で、妻は作家の岡本かの子、こどもは芸術家の岡本太郎です。


12:39 枡形跡を右折して町中の道に行き、太田宿に入りました。
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12:40 太田本町
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12:41 米屋
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12:41 中山道太田宿碑
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どうも道を間違えたようなので、一旦分岐に戻りました。
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12:45 神明水公園
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12:47 太田宿道標
左 太田脇本陣宿三丁
御嵩伏見宿三里
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12:47 法華経塚と飛騨道追分
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案内板
法華経塚と飛騨街道追分
Hokekyo-zuka / Nakasendo-Hida Kaido forked place
法華経塚 は、埋葬地(墓地 )の入口に建てられた石碑だったと言われています。
ここから少し東に行くと、飛騨高山へ向かう飛騨街道の追分があります。
現在、ここから東に進んだ神明堂の交差点付近には、明治時代に伊藤萬蔵 により建立された中山道と飛騨街道の道標が残っています。
美濃加茂市商工観光課 」


12:49 新町木戸門跡
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さて、前にも書きましたが、2016年に太田宿から草津宿まで(一部を除く)二度目の中山道を歩いているので、ここから先、ほぼ三度目の中山道になりますが、2009年に初めて歩いた時のことをほとんど覚えていないので、気分的にはやはり二度目の中山道歩きということにしておきます。


【潘隆上人の墓碑】

12:52 太田稲荷神社境内で、播隆上人の墓を見ました。
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ここには、11年前の2009年秋と、2016年8月にも訪れていて、今回三度目です。


2016年のブログより

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2016.8.2.

太田宿から中山道美濃路を歩き始めました。

美濃太田駅から中山道までは少し歩きます。

中山道にたどり着き、最初に見学したのは太田稲荷神社境内にある播隆上人の墓。

播隆上人は槍ヶ岳を開山した人で、高校生の時、新田次郎著「槍ヶ岳開山」を読んで感動しました。

播隆上人は太田宿でその生涯を閉じています。

2009年秋に美濃路を歩いた記憶はかなり薄れたのですが、播隆上人の墓はよく覚えています。

太田稲荷神社の隣には祐泉寺があり、境内には北原白秋歌碑、坪内逍遥歌碑、松尾芭蕉句碑があります。

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12:55 祐泉寺
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案内板
「 祐泉寺

龍興山(りゅうこうざん)祐泉寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、寺伝によれば文明6年(1474)、土岐源氏・土岐頼政の次男、東陽英朝禅師(大道真源 だいどうしんげん)が湧泉庵という庵を結んだことにはじまるといわれています。
永正年間(1504~1521)には八百津の大仙寺の末寺となり、祐川庵といいました。寬文年間(1661~1673)には、関の梅龍寺末寺の祐泉寺となり、明治になって妙心寺本山の直末となりました。
また、火難水難から守るとの言い伝えが残る瀧場観音があり、美濃西国27番目の札所になっています。
境内には坪内逍遙北原白秋といった文人が詠んだ歌碑、槍ヶ岳を開山した潘隆上人、『日本ライン』の命名者、志賀重昂(しげたか)の墓碑などが残されています。 」


坪内逍遙歌碑(右) 北原白秋歌碑(左)
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坪内逍遙歌碑
坪内逍遙梅の歌二首

山椿さけるを見ればいにしへを
幼きときを神の代をおもふ

この木の実ふりにし事のしのばれて
山椿ばないとなつかしも 」

北原白秋歌碑
「 細葉樫秋雨ふれりうち見やる
石燈籠のあお苔のいろ 」


芭蕉の句碑
「春なれや名もなき山の
朝かすみ
甲子吟行の句』 」
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【太田宿町並み】

12:59 十六銀行旧太田支店跡
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案内板
十六銀行 旧太田支店

 この建物は、十六銀行太田支店 として明治40年12月に建設されました。
 太田町から市町村合併 で昭和29年4月に美濃加茂市 が誕生し、その後、昭和40年10月まで58年間の長きに渡り地元の繁栄に貢献してきた建物です。
 建物の内部には金庫もそのまま残されています。
 外観においても2階窓部分につけられた防犯用の格子や、鬼瓦についている銀行を現す銀の文字などが残されており、当時を偲ぶことが出来ます。
明治44年12月時 十六銀行
公称資本金 155万円
支 店 数 17店舗
県内銀行界預金シェア 18.8%

東海建設 (株)調査部 」


12:59 旧旅籠小松屋
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案内板
「 旧小松屋 と上町の桝形
Komatsuya / Kan-machi Masugata

太田宿 には、旅人を宿泊させる旅籠屋 や木賃宿 がありました. 天保14年(1843)の『中山道宿村大概帳 』によると『旅籠屋弐拾。内大三軒、中拾壱軒、小六軒』と記されています。大・中・小に区別され、宿の規模や格付けがされています。脇本陣 林家 所蔵の『旅籠万覚帳 』によれば松野屋・岩井屋・坂本屋・三升屋・油屋・今井屋・小松屋などが太田宿で宿屋を営んでいることがわかります。
この旧小松屋のあたりは、右の絵図に描かれているとおり上町の枡形からすぐの所にあり、今も枡形はその面影を残しています。
美濃加茂市商工観光課 」

13:00 魚徳
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魚徳商店ホームページより

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魚徳商店 鮎の甘露煮&海鮮丼

「魚徳の鮎の甘露煮」
          
中山道五十一番目、太田宿に昭和二十年創業。先代から引き継ぐ秘伝のたれを使い丹精込めて作りました。炊く前に素焼
きの一手間を加える事で、より一層味に深みがでます。是非ご賞味ください。

※鮎の甘露煮の地方発送も承ります(送料別途)。

「海鮮丼のりん兵衛」

岐阜市場から直送仕入れた新鮮な海の幸を豊富に使った魚徳オリジナル「海鮮丼」広島産の醤油をベースにコブだしでブレンドされたたれでお召し上がりください。

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13:00 永楽屋
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13:00 辰巳屋
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13:01 太田宿 渡しの広場
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案内板
「 太田宿
渡しの広場
Ota-juku Watashi no Hiroba

中山道 51 番目の宿場町『太田宿』は、街道を行き交う人々が木曽川を船で 渡る『太田の渡し』があったことで、町として大いに栄えました。
この『太田宿渡しの広場』は、そんな『太田の渡し』が担ってきた役割である人とまちをつなぐ交流拠点となること、そして利用する皆さまに『わたしの広場』(My garden)として親しまれることを願って名付けられました。
広場のデザインは、芝生エリアの曲線が雄大木曽川の流れを、舗装エリアが渡船場跡の石畳を彷彿とさせる意匠としています。

美濃加茂市


13:02 御代梅醸造
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御代桜ホームページより

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明治二十六年の創業以来、百有余年…中山道五十一次の太田宿は、飛騨、木曽両川の合流点直下の木曽川畔に位置し、中山道の三大難所「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と馬子唄にもある急流・太田の渡しのあった宿場で、現在も太田宿の面影を色濃く残す一角に、御代桜醸造はあります。中山道御料林のいかだ乗りや街道を行き交う数多くの人々に『天の美禄、百薬の長』として愛され親しまれてきた清酒、御代櫻。「加茂神社の東南の泉田という所に清冽な清水が湧き出ていた」、「大化の改新より前、鴨の里の県主の一族が水取りの伴に選ばれて、大和朝廷に水を奉っていた」という古伝の史実もみられるなど、水の清冽な岐阜美濃加茂は、酒造に絶好な気候風土を具備した適地といえるでしょう。

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【太田宿脇本陣林家】


太田宿は、本陣跡は門しか残っていませんでしたが、元旅籠の旧家や脇本陣林家が残っていました。
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「日本歴史街道岐阜県17宿中山道散策ガイド」より

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明和6年(1769年)に建てられた建物で、格子戸と連子窓、屋根の両端に設けられた「うだつ」など、江戸時代そのままの姿を今に伝えています。 国の重要文化財に指定されています。

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手前の脇本陣は250年前の建物
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奥の隠居所は 190年前の建物で、隠居所は無料公開されていたので立ち寄りました。
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隠居所と言っても広くて立派です。
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こちらの写真は手水鉢の横が水琴窟になっていて、写真の黒い石のところに水を流すと、とてもきれいな音が流れます。それも、今まであちこち聞いたことのある水琴窟は小さな音が多かったのですが、とてもはっきり聞こえ、それも、音がどんどん変わっていって面白かった。
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樹齢何百年の銀杏のぎんなんも売っていました。
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13:09 案内板
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中山道分間延絵地図

この『中山道分間延絵地図』(正式には『五街道其外分間延絵並見取絵図』の一部)は、江戸幕府により中山道など五街道とその主要な脇街道の実態を把握するために作成されたものです。幕府の記録によると、道中奉行の直轄事業として寛政十二年(一八〇〇)から文化三年(一八〇六)にかけおよそ七年の歳月をかけて完成しました。彩色を施した精密な絵図で、街道の実情を忠実に伝えています。

『太田の渡し』は、中山道きっての難所でした。水深が深く流れが速いこと、また出水が多かったためです。川幅は平常時で八五間(約一五五メートル)ありました。
渡し場は、江戸時代の初め太田村の祐泉寺付近にありましたが、流路が変化したことなどから、江戸時代後期には、この絵図でも示されているように、より上流の下古井村内(現在の太田橋の下流約二〇〇メートル付近と推定)に設けられていました。
東西の長さ六町十四間(約六八〇メートル)の太田宿には、天保十四年(一八四三)家数が百十八ありました。本陣、脇本陣のほか問屋場、旅籠屋などが軒を連ねていた様子がうかがえます。
宿の西には『尾張殿地方役人出張役所』(尾張代官所)が描かれています。天明二年(一七八二)に設置され(現在の太田小学校付近)、加茂、恵那、土岐の三郡を支配していました。坪内逍遙は、この代官所の役人の子として安政六年に生まれています。

二〇〇三年三月 美濃加茂市



【愛の聖地 太田宿】

13:09 中山道会館 トイレをお借りしました。
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太田宿のエノキとヤドリギ
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案内板
中山道太田宿 のエノキ とヤドリギ

 太田宿中山道会館内にそびえるエノキとヤドリギは、樹高十八m、幹周三・三ニmで市指定の保存樹 に平成十七年八月五日に指定されています。このエノキとヤドリギは、かつて栄えた宿場町の面影を残す太田宿に欠かせない貴重な宝で、地元市民はこのエノキの大木を太田宿のシンボルとして大切に見守っています。

美濃加茂市NPO法人宿木 」

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案内板
「 ~愛の聖地 太田宿~

太田宿中山道会館のパワースポットと言われる榎(えのき)の大木。その枝に青々とした緑のボール状の樹形がヤドリギです。大地に根を張らず浮いたような姿は、榎に宿っているとわかっていても不思議な植物です。
ヨーロッパでは、神聖なパワーを持つ『聖なる木』と言われ、『愛』をもたらす力があり、ヤドリギの下で愛を誓うと二人な愛が永遠に続くと言われています。

あなたの大切な人とどうぞ! 」
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案内板
「 太田宿

中山道五十一番目の宿場となる太田宿は、中山道の三大難所の一つに数えられた『太田の渡し』があり、飛騨街道と郡上街道の分岐点でもあったところから、大いに栄えました。現在も国重要文化財の旧脇本陣林家住宅をはじめ、旧太田宿本陣門や二ヵ所の枡形などが残り、往年の宿場の風情を残しています。
太田宿をめぐる旅の出発点である太田宿中山道会館の展示室では、太田宿の歴史や文化を学ぶことができます。

美濃加茂市


【旧本陣跡本陣門】

13:18 福田本陣跡本陣門
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案内板
美濃加茂市指定有形文化財
旧太田宿本陣門

旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の仲町の現在の場所にありました。明治時代になると旧本陣には太田町役場がおかれ、町の中心的存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。
『旧太田宿本陣門』は、文久元年(1861年)仁孝天皇の皇女『和宮』が十四代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並みなども新築・修繕されたといわれています。
この門は、一間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理を行いました。」

13:20 亀谷商店 酒屋さんのようです。
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【高札場跡と郡上街道追分】

13:22 高札場跡と郡上街道追分
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案内板
「 高札場 跡と郡上街道 追分
Kosatsuba Ato (Site) / Nakasendo-Gujo Kaido forked place

高札は、法度 ・禁令 、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。一般の人々に知らせる目的で立てられました。弘化2年(1845 )の「加茂郡太田村家並絵図 」には、下町の西福寺 入口付近に高札場が描かれています。
『濃州徇行記 』には「毒薬 、親子 ,火付 、切支丹 、荷物貫目 、駄賃高札 」が書かれた高札と船高札 があったとされます。また、ここは郡上へ向かう「郡上街道」との追分でもあります。
左手にある石の道標は明治26年(1893 )に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵 が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。
美濃加茂市商工観光課 」

13:22 郡上街道追分道標
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「 右 関上有知 左 西京伊勢」


二度目の中山道22日目の4(ロマンチック街道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/02/01/204458


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003