2度目の東海道17日目の4
6月13日(木)の4
京方見附までが桑名宿だと思うのですが、この後も桑名市の歴史的なものがたくさんあったので、桑名市郊外という章を設けました。
【吉津屋見附跡と枡形】
居酒屋の金田屋さんの角に写真の指差し道標がありました。
新しい道標みたいで、どうやら桑名博物館前にあった道標のレプリカをモニュメントとして置いてあるようてす。
9:51 吉津屋見附跡
案内板
「 吉津屋見附
慶長六年(1601)、江戸と京都との間に東海道の制度が設置された後に、桑名城下を通る東海道の見附として吉津屋門が建てられ門の南側に桑名藩の役人が詰めている番所が建てられました。吉津屋門は、別名を七つ屋門とも鍛冶町門とも呼ばれます。東海道はこの門をめぐり、四角形の三辺をまわり、いわゆる廾形道路となっていました。諸大名の行列は、この門の前後から本行列に整えて、桑名城下を通りました。 」
さっき京方見附があったのに、どうしてまた見附跡があるのか、わかりません。
この後、写真のような道標を頼りに、枡形をたどります。
【いもや本店、泡洲崎八幡宮、光徳寺】
9:56 いもや本店
右斜め前にこの店が見えたら、この店を目印に右折します。
いもや本店
昔ながらのおもちゃ(主にプラモデル)を天井から床まで所狭しと吊り下げている古いおもちゃやさん。懐かしいおもちゃもたくさん残っているので、全国から買いに来るそうです。
昔は駄菓子も売っていて、長居する子どもにはレッドカード、と言って追い出していたそうです。
老夫婦でやっていましたが、最近ご主人が亡くなられ、今は奥さまだけでやっているらしいです。午前中はご近所の老人たちの溜まり場になっているそうです。
9:59 泡洲崎八幡宮
案内板
「 泡洲崎八幡社の由来
御祭神 誉田別命
相殿 天照大御神
相殿 天児屋根命
江戸時代以前、桑名の町中は町屋川の流れにより自凝洲崎、加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、この付近一帯を泡洲崎と称し當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。
慶長年中(1596~1614年)町割の時旧地今の一色町より光徳寺門内北側に鎮守され郷司出雲守が神主として奉仕されていた。
明治四十一年に合祀令が下り桑名宗社に合祀されていたが、昭和二十五年十月十日、新町産土神として現在地に分祀遷御された。
境内に天保十三年(1842年)新町北端に建立されていた導石「右きゃういせみち」「左ふなばみち」がある。
祭日 歳旦祭 一月第二日曜
例大祭 十月第二日曜 當社 」
10:00 光徳寺
「お寺の風景と陶芸」というサイトから
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光徳寺 (三重県桑名市) 万古焼の祖・沼波弄山の菩提寺
2014/06/28 09:35
三重県四日市を中心とする伝統工芸品・万古焼は地場産業でもあるが、
その主たる陶器は急須や土鍋で、特に土鍋の全国シェアは70%以上と
いわれている。
その万古焼の創始者が桑名の沼波弄山(ぬなみろうざん)(1718~77年)で、
自分の作品に<萬古>や<萬古不易>と印を押したのが萬古焼(万古焼)の
始まりとなっている。
当時の作品は<古萬古>と呼ばれ、美術工芸品として扱われている。
光徳寺は鎌倉時代に念仏道場として始まったと伝えられるが、盛衰を
経て1533年光徳寺として再興されている。
沼波弄山の菩提寺が光徳寺であり、墓碑が建っている。
(1)寺名:光徳寺(こうとくじ) (2)住所:三重県桑名市新町58
(3)山号:鎮照山 (4)宗派:浄土宗
(5)開山:徳誉 (6)開創:1533年 (7)本尊:阿弥陀如来
(8)その他
1)沼波弄山墓所:市指定史跡
写真には、「圓光大師史跡」と書いてあります。
円光大師は浄土宗を開いた法然上人のこと。
法然上人がここを訪れたかどうかについては分かりません。
東海道を歩いていると、親鸞聖人旧跡やら日蓮がここで奇跡を起こした、など、いろいろ見かけましたが、果たしてその何%が本当にご本人がいらしたか?
本当に訪れたかもしれないし、うやむやな言い伝えかも知れないし、畏れ多くも聖人を名のる偽者が立ち寄ったかもしれない。
無名の旅の僧が村人を助けて、村人が勝手に聖人と勘違いしたかもしれないし、聖人の孫弟子当たりが訪れて、村人が勘違いしたかもしれない。
ちょっとしたミステリー小説でも書けそうですね。
【十念寺、寿量寺、連鶴の長円寺】
10:01 十念寺
十念寺には、森陳明之墓があります。
案内板
「 森陳明之墓 一基
森陳明は、文政9年(1826)6月12日に江戸桑名藩邸で藩士小河内殷秋の長男として生まれましたが、、殷秋の兄森陳功に男子がいなかったので養子となりました。 陳明は、藩主松平定敬(1846-1908)が京都所司代在職中に公用人となりました。 戊辰戦争(1868-69)では、東京上野で新政府軍と戦ったあと、定敬に付き従い、函館に渡りましたが、その後降伏しました。
戊辰戦争後、新政府から桑名藩は、戦争の責任者を差し出すように命ぜられ、陳明は藩の全責任を一身に負い、明治2年(1869)11月13日、東京深川の桑名藩邸で切腹しました。 陳明の墓は、桑名の十念寺と東京深川の桑名藩主の菩提寺である霊厳寺にあります。 十念寺の墓の正面には、陳明が仕えた松平定敬の手で 「森陳明之墓」 と記されています。 なお、墓は十念寺境内の西墓所のにあります。
10:02 寿量寺
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妙延山と号す。
日蓮宗。
元は今一色にあったが、慶長町割の際に現在地へ移る。
江戸城の障壁画を描いた狩野光信は江戸から京都へ帰る途中に、慶長13年(1608)6月4日桑名で没し、当寺に葬った。
入口すぐ南側に「狩野光信墓」の小さな五輪塔がある。
境内には明治2年(1869)銘の仏足石があり、寺宝として「銅磬」、「日蓮聖人御本尊」がある。
建物は戦災で焼失。
のち鉄骨木造建で本堂を再建。
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10:04 長円寺
長円寺
案内板
「 長円寺(ちょうえんじ)
浄土真宗本願寺派。古くは江場村にあったが、慶長町割の際に現在地へ移りました。市指定文化財として、桑府名勝志、久波奈名所図会、桑名の千羽鶴があります。これは当寺11代住職魯縞庵義道(ろこうあんぎどう)(1834没)の作品です。桑名の千羽鶴は1枚の紙で連続した鶴を多く折る珍しい方法です。境内の墓地には、大坂相撲力士千田川善太郎(1804没)の墓があります 」
1枚の紙から連鶴を作るのを考案したルーツと言われているそうです。
【広瀬鋳物工場跡】
10:05 報恩寺
報恩寺の先、日進小学校南交差点を右に曲がります。
10:08 広瀬鋳物工場跡
案内板
「 広瀬鋳物工場跡
江戸時代のはじめ、城の建設などのため、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えた。そのためこの付近を鍋屋町と称するようになった。この工場では梵鐘や日用品も造り、鋳物製品は桑名の特産品となった。東海道に面しており、文政9年(1826)にはシーボルトも見学している。
現在は個人の住宅となっている。 」
案内板のある場所に建つ個人のお宅があまりにも立派で、写真を撮ってしまいました。
【天武天皇社】
10:09 天武天皇社
「桑名歴史案内」より
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天武天皇社
672年の壬申の乱(皇位継承を巡る飛鳥時代の内乱)の際、大海人皇子(後の天武天皇)は吉野から山伝いに不破の関へ向かう途中、妃の宇野讃良皇女(うののささらひめみこ のちの持統天皇)と共に桑名郡家(地方を治める役所)に駐泊しました。これにちなみ、のちに創建された神社です。
もとは日進小学校北の新屋敷付近にあったようですが江戸時代に当地に移りました。新屋敷には「天武天皇御足洗の井戸」と称する伝承地が伝わっています。
なお桑名郡家がどこにあったのかは現在までのところ分かっていません。
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「天武天皇社由緒」
読んでみましたが、特に下の方の劣化が激しく読めないところもあるし、私の読み間違いもあるかもしれません。
「 天武天皇社由緒
当社ハ壬申ノ乱ニ天武天皇
皇后ト共ニ吉野ヨリ潜幸
桑名郡家ニ御宿泊アリシ
深キ由縁ニヨリ創立セラル
明治天皇御東幸ノ際
当社ノコトヲ聞召サレ特別ノ
思召ヲ以テ明治二年六月(十四日?)
左ノ如キ御沙汰アリ
伊勢國桑名郡本願寺村地内
鎮座天武天皇社ハ御由跡
義ニツキ永世湮滅無之様
ナサレタキ思召ニ付同所
取締中其藩ニ於テ取許ルベ
キ旨御沙汰候事
行政官 」
一番下の「行政官」は入れずに、下から四列目の「湮滅」はインメツと読み、隠滅と同義です。
2度目の東海道17日目の5(四日市宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/28/151758