2度目の東海道17日目の5
6月13日(木)の5
【一目連神社と火の見櫓と矢田立場跡】
10:11 一目連神社
妖怪を祀る?神社 一目連神社
kitaise.my.cookan.jpより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
一目連神社の祭神は、天津彦根命の第三子、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)である。天目一箇命は、筑前・伊勢の忌部の祖といい、日本書紀の一書にある国譲り神話に「作金者(かねたくみ)」とあるので、鍛冶をするひとといえる。また、多度山に一つ目の竜が住んでいたのを祀ったもので、一つ目竜が一目連に転訛したものともいわれる。
この社には、神の出入りを容易にするために扉がなく御簾が掛けてあるのみである。神が社から出るときは、御簾は飛び散り、一面、黒い雲に覆われて激しい雷雨を伴い、大きな火の玉となって遊行すると伝える。一目連とは、つむじ風、突風をさしているのであろう。『日本神祇由来事典』には、「台風の目は一つであり、一目連神社が暴風雨神となると、いささか科学的になってくる。また、ギリシャ神話のキプロスをはじめとして、鍛冶の神は世界共通して、一つ目の神であることもおもしろい」とある。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
一目連神社はもとは多度神社内にある神社ですが、150年前にここ鍋屋町に勧進されたそうです。
一目連神社の入り口に、
「伝馬公園の存続を!」
という旗が立っていたのが気になって調べてみました。
桑名市HPより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
伝馬公園利用再開について
多世代共生型の福祉施設※を、伝馬公園の敷地内に移設整備する計画のため、伝馬公園を一時閉鎖し、埋蔵文化財の試掘調査を実施しておりましたが、調査が終了しました。
長期間ご協力をいただき、ありがとうございました。
伝馬公園の一時閉鎖は解除し、開放しましたのでご利用ください。
また、「土砂災害」「地震」「大規模な火災」時の指定緊急避難場所としての利用も再開いたします。
※多世代共生型の福祉施設…現在、江場地内にある「清風園(養護老人ホーム)」「療育センター(児童発達支援事業所)」「山崎乳児保育所」と、大福地内にある「山崎苑(母子生活支援施設)」を移設し、その他の福祉機能や事業を加えた複合施設
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
10:19 火の見櫓・矢田立場跡
火の見櫓のすぐ下に、写真の案内板がありました。
案内板
「 矢田立場・福江町
江戸時代の矢田町は、東海道 の立場(宿場と宿場の中間にあって、旅人が休憩する茶店などが集っている所)であった。「久波奈名所図会」には、「比立場は食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無き事なし」とある。福江町へ曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成三年に再建したもの)もあった。現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家もみられる。
福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿場が多くあった。福江町の南端は、桑名宿 の入口に当たるので、旅人を引止めるために、宿場の人たちが集まっている宿引小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内をした。
【了順寺と江場松原跡】
10:22 神戸岡(ごうどおか)神社
10:25 了順寺
了順寺の山門は、桑名城の旧城門が移築されたものだそうです。
さっきの火の見櫓で左折してから、ずっとまっすぐな一本道を歩くのですが、その辺りでゴミ収集車と抜いては抜かれ、を繰り返していて、何せゴミ収集車は音がうるさいし、圧迫感が強いので、早くいなくなってほしい、あちらは仕事なんだから仕方ないけど、とずっと思っていました。
そんな時、了順寺が立派なお寺だったので、気持ちが癒されました。
10:27 江場松原跡
案内板
「 江場松原跡
七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が立ち並んでいたが、
江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となってた。眺望がよく、西には、鈴鹿の山脈が遠望され、東は、伊勢の海が見られた。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風頃までは、松並木も残っていたが、現在は家が建ち並び、一本の松も残っていない。 」
【城南神社と松岡株式会社資料館】
10:30 城南神社
城南神社 神社ネットより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
御由緒
当神社は元神明宮にて、第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大御神を永遠におまつり申し上げるべき宮地を求めて、 御神慮のまにまに南勢へ御巡幸されたとき暫時御停座の御旧地と伝承されております。故に古来、神宮式年御遷宮ごとに、 皇大神宮一ノ鳥居、古殿舎の一部が御下賜になり改築の慣例になっております。明治41年、旧城南村各大字の神社を合祀、城南総鎮守となりました。 当神社に合祀の延喜式内長倉神社の相殿には少彦名命を奉斎し、古老の言い伝えにも薬の祖神としてあがめられ、病気平癒の祈願が行なわれたと伝えられております。 昭和27年4月8日、神宮の北白川祭主様には北勢地方をお巡りの際、当神社に御参拝になり玉串を奉られました。昭和30年、各大字の神社は旧社地に分祀になり、 昭和50年には城南干拓の立田町に城南干拓神社が御鎮座になりました。当神社御鎮座の地は、古くは宇治の鼻と呼ばれておりましたが、 壬申の乱のときの天武天皇のお言葉から安永の地名が起きたと伝えられております。当神社近くには、幣棚、神勺などの地名が残り、 古くからの祭祀の姿が偲ばれます。年中恒例祭典 歳旦祭 1月1日 祈年祭 2月17日 合社祭 5月1日 例祭 10月17日 新嘗祭 11月23日 その他の年中恒例祭典神事 10回
御祭神
《主》天照大御神,《合》保食神,少彦名神,天目一箇命,大山津見命,火産霊神,《配》豊受比売命
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
10:31 写真の、気になる建物。
扉は閉められカーテンも閉められていて、今は使っていない建物なのかな。
よく見ると、
「松岡産業株式会社資料館」
という看板がかかっていました。
調べてみたら、建物好きな片野ブログを見つけました。
「かどの煙草屋までの旅」
桑名建築散歩6 (2010年4月)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
(旧東海道の) 街道筋に建つ松岡産業(株)名古屋支店は、昭和の初に建てられたちょっとモダンな建物で、白の外壁に茶のスクラッチタイルの腰壁、玄関のコーナーには丸みをつけ軒のラインには段差をつけ外観に変化を持たせています。
4年前に訪れた時は道を挟んで向かい側に松岡工業と言う工場があったのですが、すっかり取り壊され敷地全部が分譲住宅になっていて驚きました。松岡産業の建物も営業している様子がなく寂れた感じで、現在は使われていないのかもしれません。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
松岡産業株式会社を調べてみると、
「明治30年(1897年)創業
土木建設、環境機器の開発、製作、販売
防災設備、災害対策などに貢献 」
というような会社です。最初に営業を始めた建物を資料館として残して、会社自体が移転してしまったらしく、大きな会社に発展して活躍中のようです。
10:35 謎のアトリエ
写真に写したのは、機械部品を組み合わせた千手観音?
アート教室と何かの製作所が合体しているのかな?
ここに挙げた作品の他にもドキッとするような作品が幾つか見られて、私がこの近所に住んでいたら、このアート教室の門を叩きたい。
10:39 県道258号線を潜る地下道
【安永ふじの里】
10:44 安永ふじの里 玉喜亭
左側に緑の屋根(すぐに藤棚とわかりました )があり、緑陰の奥の方に石灯籠や説明板があり、入っていいのか迷いましたが、説明板を見たいから、と言い訳しながら入っていきました。
説明板は暗くて読めないので、アップで写真を撮って、帰ってから読みやすくなるように加工しましたが、それでも読みにくい。
東海道を歩いている方のブログを見てみると、皆さんこの案内板の解読には匙を投げていますが、私は最後まで頑張りました。
安永ふじの里 料理旅館 玉喜亭
手書き案内板
「ここは安永の里 玉喜亭のふじは樹齢約二百数十年を経ており、春は近在の人々の花見で賑わい、根の張ったふじの幹は地震の時、住人の集結場所であったと伝えられている。この地は、東海道の往還にあるので、人馬の休息所とされていた。常時使用された『お馬口御洗水』の高札が向かいの母家に残されている。(江戸時代の東海道筋の地面は現在より低い位置にあり、この母家を見れば推測できる)母家は文政元年一八一八年戊寅年の建物で、玉田屋喜輔による墨跡も保存されており昭和十八年頃まで使用され『名物安永餅』を作った『かまど』と『看板』が今も唯一現存する。
旅人を茶屋の暖簾に招かせて
のぼりくだりをまち屋川かな
桑名七里の渡しよりこの安永の里に至る旅人の憩の場所として十返舎一九の著本「東海道中膝栗毛」にもこの街道が紹介されており、往時の面影が偲ばれる。
平成三年四月吉日
安永ふじの里 玉喜亭
主人敬白 」
案内板に紹介されている2階の母家が、こちらの写真です。
案内板にあるように、
「 (江戸時代の東海道筋の地面は現在より低い位置にあり、この母家を見れば推測できる)母家は文政元年一八一八年戊寅年の建物」
【伊勢両宮常夜燈】
10:45 伊勢両宮常夜燈
案内板
「 伊勢両宮常夜燈 ISERYOGUJYOYATO
一基
有形民俗文化財 昭和46年4月15日指定
この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道のみちしるべとして、また伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名・岐阜の材木商によって寄進されたものである。石工は桑名の根来(ねごろ)市蔵(いちぞう)とある。
安永は、町屋川(員弁川)の舟運や東海道筋の通行客などを相手とする茶店などで賑わっていたで場所であり、この常夜灯はその頃をしのばせる遺物である。
竿正面 大神宮常夜燈
右 面 五穀成就
左 面 国家安全
裏 面 文政元年寅九月吉日
基壇正面 材木屋中 (18名の姓名が書いてありますが省略)
裏 面 根来市蔵藤原恭備
文化財を大切にしましょう。
平成27年 桑名市教育委員会 」
ここから真っ直ぐ進むと、町屋川で道が途切れます。
そして、かなり汚れた看板がありました。
「 東海道五十三次 町屋橋跡
江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集っている所)であり、また町屋川の舟運の舟着場でもあったので、大いに賑い、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。
この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋がかかっていた。寛永12年(1635)にはじめて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本の板橋であったり、しばしば変わっている。下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が退避できるように橋がやや広くなっていた。
昭和8年(1933)、国道一号線の橋がかけられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。」
少し戻って、左側にある町屋橋を渡りに向かいます。
【町屋橋 員弁川】
10:50 町屋橋
橋から川を眺め、あの辺りが昔の橋かなあ、と想像していました。
さっきの看板には町屋川と書いてありましたが、今は員弁川と言うようです。
員弁川 wikipediaより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
員弁川(いなべがわ)は、三重県の北東部を流れる河川で、二級水系の本流である。
鈴鹿山脈の御池岳北麓に発し、いなべ市・東員町・桑名市などを概ね南東に流れ伊勢湾に注ぐ。員弁川水系全体の河川数は34におよぶ。
河口付近の桑名市・朝日町周辺では「町屋川」と俗称される。これは、かつては現在の近鉄益生駅周辺の町中を流れていた名残だと言われている。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
員弁川の、この付近の俗称が町屋川というみたいですね。
【縄生の一里塚跡】
11:01 縄生(なお)の一里塚跡
江戸から97里目
縄生という地名は苗生が転化したものだそうです。
伊勢朝日第1号踏切
踏切を渡ると、右側には東芝、左に東海道ポケットパークがあります。
【東海道ポケットパーク】
11:08 東海道ポケットパーク
写真の中央、やや左寄りに写っている案内板を拡大したものがこちらの写真。
そこに、次の説明が書いてあります。
ポケットパーク案内板
「 三重県でも北部に位置する朝日町は、北は町屋川(員弁川)を挟んで桑名市へ、南は朝明川を隔てて四日市市へ、東は川越町を経て伊勢湾に達します。西には標高50m前後の朝日丘陵があり、その東麓には旧東海道がほぼ南北にはしり、それを境に丘陵地帯と田園地帯に分れる5.99k㎡の小さな町です。朝日町には弥生時代以降の遺跡が西部丘陵を中心に点在しています。なかでも、昭和61年の発掘調査によってその塔跡が明らかになった縄生廃寺跡は、白鳳時代創建と考えられる寺院跡で、全国的に注目を集めました。塔心礎から一括出土した舎利容器は、平成元年に国重要文化財に指定されました。この町は、『日本書紀』に『朝明駅』(縄生付近と考えられている)と記述され、壬申の乱(672年)の時には、大海人皇子らが美濃国へたどった道筋にあたります。また、江戸時代には東海道筋として栄えたところでもあります。この町からは、著名な国学者橘守部、萬古焼を再興した森有節、日本画家栗田真秀・水谷立仙らが生まれました。」
ポケットパーク内には、こちらの写真のような、一里塚のレプリカみたいなものもありました。
木陰で暫し深呼吸。
奥の塀に焼き物の欠片か、或いは瓦のようなものが埋め込まれていたり、地面に瓦のようなものがランダムに敷かれていて、なにやら字が書いてあるようでした。
【蛤を焼く女】
東海道ポケットパークの案内板をさらにアップにしたのがこちらの写真。
茶店の店先で蛤を焼き、その匂いで客寄せをしています。
この絵は右半分で、全体の絵がこちら。
「蛤料理魚重楼」HPよりお借りした絵です。
これは多分、東海道中膝栗毛の弥次喜多ではないかと思われます。
その絵を見ながら描いた絵手紙。
この広場、東海道ポケットパークは小向(おぶけ)立場跡なのかな?とも思いましたが、小向立場跡は所在が不明のようです。
蛤を焼く女性の絵に書かれている狂歌。
「 はまぐりの 茶屋は同者を 松かさに いぶせく世話を やく女ども」
同者は旅人のことみたいです。松ぼっくりで燻して焼いているようです。
世話を焼く、と蛤を焼く、を掛けています。狂歌なので、もっと深読みもできそうですが、この辺に留めておきましょう。私は近世文学専攻ではないので。
【歴史の生き証人樹齢300年初の榎】
11:11 樹齢300年の榎
2枚の説明板
どちらの説明板も、左側に英文が書かれているかいないか以外は、日本語に関しては日付以外、同じ文章が書かれています。
英文が書いてあるほうの説明板の方が、読みやすいし、新しく設置されたもののようです。
英文が書かれていない方は読みにくいのですが、最後に「平成十年吉日」と日付が記され、もう一方には日付は入っていません。
案内板
「 榎
推定年齢 約300年余
この木は東海道の並木として植えられていたものです。並木は、松の木がおなじみです。この朝日町地内も同様でした。ところが、こうした雑木に類するものも混じっていました。
松は、太平洋戦争末期、松根油をとるために痛めつけられたり、その後の松くい虫の被害などによって、あとかたもなくなってしまいました。
もしこの木が話せたならば、私たちに、この街道や村で起こったことをたくさん語ってくれることでしょう。
平成十年三月吉日 」
【東海道はこちらでござる】
11:21 浄泉坊
案内板
「 浄泉坊
浄土真宗本願寺派。山号を小向山という。慶長8年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことにはじまります。寛永15年(1638)に西本願寺より寺号の公称を許された。徳川家ゆかりののある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三つ葉葵が入っている。そのため参勤交代の大名はこの寺の門前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。 」
11:36 ファミマで休憩
水と、ダブルクリームデニッシュを買って、二つで200円。
11:41 西光寺
「 西光寺
真宗大谷派、朝日山と号する。当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に『明應5年丙辰年6月2日 願主釋念正 本願寺釋実如(第9世)判』とあり、この時(1496)をもって開基とし、その後貞享2年(1685)大谷派に転じ現在に至っている。現在の建物は明治10~23年にかけて建立され、街道に面する松も風雪に耐え松並木の面影をとどめている。 」
この写真の指差し道標、ユーモアがあって、大好きです。
【多賀大社常夜燈】
11:56 多賀大社常夜燈
交差点脇に弘化三年(1846)に造られた「多賀大社の常夜燈」が建っています(写真左)。元々、朝明川堤にあったものをここへ移したものですが、台座に多賀大社と刻まれているように、東海道から分岐し滋賀県の多賀大社へ行く道が分かれていたようです。江戸時代はこの常夜灯の西に2軒、東に1軒の茶店があり、富田の旅籠の女中がここまで出向き、客引きをしていたそうです。
11:56 柿交差点
果物の柿が沢山生っていた場所なのかと思ったら、垣から来ているそうです。
11:59 朝明橋
朝明川(あさけがわ)wikipediaより
↓↓↓↓↓↓↓』↓
鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳に源を発し、鈴鹿国定公園に含まれる朝明渓谷を刻みつつ丘陵地に出る。上流部には明治期にオランダ人技師、ヨハニス・デ・レーゲの指導のもと築かれた「オランダ堰堤」や「なわだるみ堰堤」と呼ばれる砂防堰堤群があり、国の登録有形文化財に登録されている。また1907年(明治40年)開設と県内の発電所では最古の中部電力千草水力発電所がある。中流域の多くが砂底。菰野町北部を北東流しながら田光川などの支流を併せ、四日市市に入ってからは概ね東流。下流部で川越町を流れ伊勢湾へ注ぐ。河口一帯は工業地帯で、河口左岸に中部電力川越火力発電所がある。「朝明」の名は『和名抄』伊勢国の項に「朝明郡」として見える。東征中の日本武尊が当地で夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いた、とする伝承もある。下流部の「川越町」(かつては川越村)は、明治期の町村制施行にあたり、朝明川を挟んだ南北の村々が川を越えて合併したことに因む。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
2度目の東海道17日目の6(四日市北の玄関から四日市宿中心部まで)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/28/163415