紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き17目の6(四日市の北玄関から四日市宿中心部まで)

2度目の東海道17日目の6

6月13日(木)の6

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四日市の北玄関松寺】


12:01 みんなの東海道いこいの広場 松寺自治
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力石
案内板
「 力石(ちからいし)

この力石は、江戸末期から明治初期にかけて東海道筋のこの地で営まれていた茶店「橋南(はしみなみ )のつる」の主 大久保つるが後生に。
石には「二十七メ」の刻まれ、その重さが二十七貫目(約100kg)であることが想像される。
北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に保存されたものである。
東海道を往来する旅人や篭かき衆が休憩んだおりに、余力を誇示するがごとく自慢げに持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。又この辺りの地名を『茶屋の前』と称するのは、この茶店に由来するものと言い伝えられている。

力石について 四日市大学 高島愼介教授により 平成二十年十二月に鑑定されている

大久保 隆氏 所蔵
松寺連合自治会 」


広場の奥に設置されている大きな説明板には、中央に大きく広重の四日市の絵(三滝橋)が描かれていました。
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右側には、

「ここは東海道四日市の北玄関 松寺」

(朝明橋を渡ると四日市市です。)

下には、松寺→蒔田→西富田 の簡単な地図が書いてあります。

左上にはシーボルトの写真。

案内板
シーボルト

1823年シーボルトはオランダ商館付の医師として来日。
 1826年オランダ商館長の江戸参府に随行
 1826年(文政9年)2月15日早朝長崎出島を出立し、3月27日夜遅く四日市に着く。翌28日5時過ぎには立ち、沿道のナタネが植えてある稲田、麦畑を見、まだ雪のおおわれた鎌ヶ岳、御在所岳を眺めている。
 富田で休憩し、9時ごろこの朝明川を渡って広々とした稲田の平野がひらけている光景を楽しんでいる。
すなわちシーボルトは1826年3月28日9時ごろ東海道松寺を江戸に向かって歩いていった。

 (シーボルト江戸参府紀行より) 」

看板の左下には、昔の朝明橋の写真。


四日市の玄関と書いてあったので、四日市宿の中心部までもうすぐだ、と勘違いしてしまったのですが、ここから四日市宿まで、遠かった。

【松寺立場跡】

12:08 松寺の立場跡
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案内板
「 松寺の立場跡 

東海道末寺の立場跡には昔は大きな榎があり、街道を往来する旅人や人足などが籠や荷物を降ろして杖を立て一休みしたところをいう。茶屋があり立場茶屋と呼んでいた。当時桑名宿と四日市宿の間には5ヶ所の立場があり、北は小向の立場南は富田の立場があった。

大矢知歴史研究会 」

輝子頌徳記念碑
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案内板
「 輝子頌徳記念碑

 伊勢国三重郡大矢知村字松寺にて佐藤庄九郎の一女として生まれる。弘化3年(1846)4月4日生まれ。25歳の時に夫が他界。50年1日の如し輝子は教育・裁縫の教育をし、門者千数百人に及ぶと言う(実際には三千人ほどの子弟がいたとも)。大正6年(1917)11月13日病気にて享年72歳で世を去る。翌年3月門人によって碑を建てる。

大正七年三月 文学博士 前田慈雲 東洋大学学長(桑名泉西福寺住職息子)

※輝子の父庄九郎は、嘉永時代庄屋を務めた。

大矢知地区まちづくり構想推進委員会
大矢知歴史研究会
四日市市大矢知地区市民センター 」


12:10 蓮證寺
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案内板
「 松栄山 蓮證寺(れんしょうじ)

 当山は浄土真宗本願寺派西本願寺)の寺である。松寺三丁目に建立されていて、阿弥陀如来が安置されている。口伝によれば、四百年位前に、現在地にお堂があり、本堂も二百年位前に建てられたと伝えられる古い寺である。
 昔の太平洋戦争中に供出された凡鐘も、地元の篤志家のご尽力により立派に再建された。また、戦争中には学童疎開で寺を利用していただいた時もある。山号は松栄山といい、松栄山蓮證寺と町名の松寺とは何か関係があるのではないかと思われる。尚、鐘楼は平成五年・山門は平成六年に再建された。」

立派な鐘楼が目につきます。


【宝性寺 鏡池

12:16 宝性寺
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案内板
龍王山 宝性寺

奈良時代聖武天皇天平12年(740)、朝明行宮の際、摩伊多の里に御野立された地で勅願により建立されたのが当寺の 創建とされる。創建時は樹木が鬱蒼とした敷地8450坪の中に七堂伽藍のお堂が立並んでいたと伝えられる。御本尊としては江州石山寺を開基した良弁僧正による一刀三礼の彫刻になる十一面観世音菩薩像を安置して祀り、長く隆盛をみた。
しかし永禄11年(1568)の織田信長の家臣滝川一益の長島一揆攻略の戦火に遭遇して焼失した。その後現在地に小堂を建立したが正徳元年(1711)再度の火災により焼失、享保4年(1719 )第6代桑名藩主松平忠雅公の寄進によって再興されたのが現在の本堂であり、御本尊とともに蒔田観音と愛称され、今日まで広く信仰されている。

四日市市指定文化財


12:19 鏡ヶ池
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案内板

「 鏡ヶ池(笠取池)

『続日本記』によると天武天皇奈良時代天平12年(740)に伊勢国行幸になり、11月に一志郡河口を立ち鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て23日に朝日郡の頓宮に着かれたとある。その場所の所在は不明であるが当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村氏宅に伝えられる話では、聖武天皇行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き天皇の笠が池の中に落ちた。丁度その時傍らに洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。あくる朝、旅たちの日は風もなく空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と見送る娘の姿とが鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。以来この池を『鏡ヶ池』と呼ぶようになったといわれる。 」

12:22 西富田踏切を渡る
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【富田一里塚跡と八幡宮の力石】

12:32 富田の一里塚跡
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富田の一里塚跡

案内板
「 史跡 富田の一里塚跡
県指定 昭和十二年十一月

昔、街道の両側に一里(約四キロメートル)ごとに土を盛り上げえのき等の樹木を植えて旅人の目じるしにしたものが一里塚 である。すでに戦国末期に存在していたが江戸の初めごろから江戸日本橋を起点として五街道を中心に設けられていた。
しかし明治以降は交通機関等の発達によりほとんど取り除かれてしまい、本市においてもその面影をみることができなくなった。古地図や文献によると四日市には富田・三ッ谷・日永・采女に四ヶ所にその跡が判明されており、これはそのうちの一つで日永の一里塚跡とともに県の史跡に指定されている。 」

12:36 八幡神社の力石
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案内板
八幡神社の力石

 『力石』は、鎌倉の頃より江戸、明治、大正と時代を越えて若者たちに愛され継承されてきた。
 『力石』は豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力、そこに集まった人々の笑いを意味していて『生きる喜びの証』であったろうと思われる。 
 『力石』の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものもあるが、ここ八幡神社の『力石』は、力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって、健康長寿への信仰を深めたのであろう。
 しかし、この『力石』も労働の機械化、生活の変化に伴って次第に忘れられ、神社や広場の片隅に放置される存在となってしまった。
 昔日の人々のこの思いを引き継ぎ、ここ八幡神社の神前に捧げ末永く保存することにしたものである。
  重量 およそ百キログラム
 『力石』は、ここ八幡神社のほか、北村若宮八幡神社、茂福にも存在する。

  富田地区文化財保存会 」

戻ってきた八幡宮

12:36 八幡宮
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案内板

八幡神社

祭神 応神天皇

『高田六郷氏神記』に『八幡大菩薩は弘安二年(一 ニ七九)二月十五日、富田地頭佐原豊前守政盛によって、東富田に勧請される』と記されている。
これが、 富田西町の八幡神社の起こりである。更に『氏神記』には『社地東西十六間ニ尺、南北八間、面積百四十五 坪、本村の元標より北の方、字茶屋町に鎮座す』とあり、かつてはこのあたりの地を八幡と呼んだと伝えられている。
明治四十二年(一九〇九)鳥出神社に合祀され、社 殿址に『八幡神社 址』の石碑が建立された。昭和四十年(一九六五)頃現在の社殿が再建され西町の産土神として戻された。
昔は、東海道五十三次富田立場の西端が八幡の森で、昼でも暗く鬱蒼と樹木が繁っていたと伝えられている。
現在では当時をしのぶ面影はないが社殿西に数百年を経た木の古木が名残をとどめている。また、境内 には力石も残されている。

富田地区文化財保存会 」


【明治の標柱と富田の焼蛤】

12:40 右折の場所
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電柱に矢印がありました。


12:42 明治の標柱
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「津市元標へ拾里 三重郡富田町 239.0 24.5 24.0
右側 桑名郡桑名町大字桑名へ弐里弐拾町/員辨郡大泉原村大字楚原へ四里拾参町弐拾四間
碑陰 大正三年十一月三十日 三重縣
左側 四日市市大字四日市へ壱里八町 」

碑陰は、石碑の裏側です。


12:44 富田の焼き蛤の看板
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富田立場跡でもあります。

案内板
「 富田の焼き蛤

富田は東海道五十三次の桑名宿と四日市宿の中間にある間の宿として栄え、西国大名の参勤交代などで賑わっていました。
『蛤の焼かれて鳴くや郭公(ほととぎす)』
この句は江戸時代に蕉門十哲のひとり、宝井其角が中町の旅籠尾張屋の店先で詠んだもので、その当時の句碑が記念碑となって富田浜に残っています。

東海道中膝栗毛』では、七里の渡しを渡った弥次さん喜多さんが、『桑名につきたる悦びのあまりに、めいぶつ焼蛤で酒くみかわして』とされています。
実はこの焼蛤、小向(おぶけ=朝日町)と富田の名物でした。江戸の初めから出回っていた各種道中記(いまの旅行案内書)
のどれにも、焼蛤は桑名の名物として採りあげられていません。
東海道名所図絵』でも、『名物焼き蛤―東富田・おぶけ両所の茶店に火鉢を軒端(のきば)へ出し、松毬(まつかさ)にて蛤を焙り旅客を饗す。桑名の焼蛤とハこれ也』と記されています。富田が当時、桑名藩領であったことから桑名の焼蛤となったようです。 」


【富田の道標と常夜燈】

12:44 明治の道標
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「南町集会所」前の道標。

碑文
「右富田一色 東洋紡績 川越村道


 すぐ隣の富田小学校校庭に面して、「明治天皇御駐輦跡」の碑が立っています。
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案内板
明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)跡


 維新の偉業もようやく成って、明治天皇は江戸を東京と改称された。
 明治元年(1868)9月20日、車駕にて京都を出発し東京へと向かわれた。24日には四日市に御駐輦、翌25日富田茶屋町広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を御賞味になられ、10月13日東京に入られた。
 その年の12月8日、京都へ帰られる途中、19日に再度五郎兵衛方に御少憩になられた。
 翌明治2年3月7日、京都をお発ちになり、神器を奉じていよいよ東京に遷都されるとき、3月15日、またもや五郎兵衛方に御少憩になられた。
 明治13年陸軍大演習をご覧になるため県下に行幸になると、7月3日、五郎兵衛方に四度目の御少憩になられた。
 広瀬五郎兵衛方の敷地は東海道に沿い、現在の富田小学校正門付近から富田地区市民センターにかけてであった。
 明治天皇御駐輦跡の碑は、公爵近衛文麿の筆である。

  富田地区文化財保存会 」

※「駐輦」〔「輦」は天子の乗り物〕=天子が行幸の途中で車を止めること。駐蹕(ちゆうひつ)。


しばらく進み、十四川を渡ると右側に常夜燈。

12:48 常夜燈
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案内板
「 常夜燈

 常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街道で見る常夜燈は、それぞれの意味をもっている。桑名川口より伊勢までは、神宮への導先であろうと思われる。
 碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。碑陰(裏)には「天保十己亥年」(1839)とあり、昔を伝えている。
 この、常夜燈の小さな灯が、明るく感じとられて淋しい夜の街道の旅人をどんなに勇気づけたことか。雨の夜、風の夜、絶え間なくこの灯を守りした人々の心意気を感じて、この灯篭を見つめてほしい。
 今一基、中町にあった常夜燈は鳥出神社に移されている。

  富田地区文化財保存会 」

 「常夜燈」は、静岡付近では秋葉山神社信仰との結びつきが強く、火防などの願いが込められていました。ここ三重では、伊勢神宮信仰と密接に結びついています。


薬師寺、常照寺】

12:49 薬師寺
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案内板
薬師寺

五十一代平城天王の大同年間(八〇六〜一〇)の頃、このあたりに百薬に手を尽くしてもなお治らない疫病が流行し、諸人は大変苦しんでいた。このことを東国の旅の途中に知った弘法大師は、ここに足を止め、薬師如来を彫り、開眼した。すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。
諸人は弘法大師に感謝するとともに、城山にお堂を建ててこの薬師如来を祀ったという。
その後、茂福(もちぶく)城主朝倉下総守盈盛(みつもり)は、ここを菩提寺として大伽藍を建立し、報乳山洪恩寺と号したが、永禄十年(一五六七)に滝川一益の兵火にかかって焼失した。このとき本尊は自ら火中を逃れて門前の松の木に避難し、光明を放っていたのである。諸人は再度の奇跡に深く感じて、翌年現在地に草庵を結んび本尊を祀った。
その後、桑名船場町の十念寺の芳誉上人によって再建されたと伝えらている。
現在本尊薬師如来秘仏として扉は閉ざされている。当地唯一の尼寺である。
六周年に一度、御開帳の薬師去来です。

富田地区文化財保存会 」


12:52 光明山常照寺
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案内板
「 光明山常照寺

天文七年(一五三八)、釈法導によって開山された。寛文年間(一六六一〜七三)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来四百余年今日に至っている。本堂は明治四十二年(一九〇九)に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられた。平成七年十一月、本堂・鐘楼の屋根の修復が行われた。
境内左側小堂には千手観音像が祀られている。明治十八年、住職大忍のころ、矯風会(茂福町内会)より預かったものであるが、百余年を経た今も毎年八月十八日のお参りが続けられている。
鐘楼の鐘は昭和二十七年(一九五二)三月、『平和の鐘』として展示されたものを当寺が譲り受けたものであり、池の間には常口(じょうこう)の歌、
『一筋に世界の平和祈りつつつつくやこの鐘永久(とわ)にひびけと』が刻まれている。


富田地区文化財保存会 」


【茂福町新設用水路碑と力石】


12:53 茂福 (もちぶく)町にある新設用水道碑
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新設用水道碑の説明を要約すると、1904年に富田十四(じゅうし)川の中間より暗渠による水路を茂福地区へ通したのですが、国道1号線がとおったことにより水田が減り、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で水路に土砂が流れ込み、十四川の水質悪化もあり用水道は消滅しました。


茂福町の新設用水碑のすく横に、大きな力石が2つ、小さいものもいくつか置いてあります。
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力石

案内板
「 力石の由来

明治の中頃、この村にある二ヵ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。
 その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。
 その後、茂福地区の青年若衆が大正の終わり頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。
 およそ三十二貫(約百二十キログラム)を肩越しまで担ぎ揚げた人は幾人もいなかったといわれる。茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。石に三十二メと刻まれている。下にある小さな石は重さ五貫(約19キログラム)で子供用であろうか 。 」

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左隣にも大きな力石があり、それについては説明はなかったのですが、どこかにあった力石を、工事などで移動することになり、ここに持ってきたのかな。

東海道を歩いていると、石仏や石塔が一ヶ所に集められている場所がよくあって、最初からそうだったわけではなく、工事などで移動せざるを得なくなって一ヶ所に集められたという事例が多いのです。


【茂福町の道標、茂福神社】


この先、右へ曲がるのがわかりました。
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小さな道標
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右 いかるが

四日市

 (四日市市茂福町)


道標は東海道沿いの茂福(もちぶく)町から北西へ(今は耕地整理により道は変わっている)田中を通って鵤(いかるが)へ向かう道との三差路の角に立っています。

この近くには、茂福城址の一部が残っているそうです。

12:58 茂福神社
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案内板
「 茂福神社

祭神 建速須佐男命ほか八柱

応永二十八年(一四二一)摂津守政平が越前朝倉よりこの地に赴任すると、建速須佐男命と天照皇大神をお祀りした。祭神を引き継いだ城主茂福掃部輔盈豊(かもんのすけみつとよ)は永禄十年(一五六七)伊勢長島城で謀殺され茂福城も落城した。その後、盈豊の遺志は受け継がれ祭祀が続けられてきて産土神(うぶすながみ)となった。
明治四十二年(一九〇九)鳥出神社へ合祀となり、従来からの祭りの日には御神霊を神輿で奉迎し、現在の茂福神社をお旅所として祭りを行ってきた。昭和二十五年(一九五〇)鳥出神社から分社、正式に茂福神社として再祀、祭神を旧社に傍観して現在に至る。
境内には鳥居、石灯籠、狛犬、太鼓橋など、石造物が多く奉納されている。古くは寛文十二年(一六七二)を始めとして、明治・大正・昭和と時を追って奉納されていて、この地の人々の信仰の篤さをしのばせている。

富田地区文化財保存会 」


【富田の常夜燈】

13:07 富田の常夜燈
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10年前のブログ

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四日市市の富田の米洗橋のたもとの巨大な常夜灯(絵手紙)は、今も夜は電気が点り、常夜灯として機能しています。
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この常夜燈は大きいので目を引き、前回絵にも書きましたが、比較的新しいもののようです。

【八幡地蔵堂

13:11 八幡地蔵堂
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案内板
「 八幡地蔵堂と旧八幡神社

この地蔵尊は、金場(かなば)の地蔵尊と同じ一つの石から造られた兄弟地蔵尊で、羽津村の北入口に置かれた結界地蔵である。江戸時代には、旅人が道中の安全や延命を祈願をしていくようになり、いつしか延命地蔵と呼ばれるようになった。
この地蔵は地蔵でありながら、頭は螺髪、手は来迎印を結ぶ阿弥陀如来の姿をしており、仏のことをよく知らない石工が刻んだものと言われている。
かつては、米洗(よない)川北岸の常夜灯辺りにあったが、昭和4四年(1929年)八幡神社址地である現在地に移設された。
地蔵堂の前にある石碑は、堂守の真譽師(しんよし)の徳を偲んで建てられたものである。
この地にあった八幡神社は、江戸時代の旅行案内記に『一国一社にして、村名も八幡と称し、皇国(こうこく)六十六拝の一つに数えられている古社である』と紹介され、『東西十間、南北五十五間』の拾います社地を有する著名な神社だったが、一村一社制により、明治四十一年(1908年) 志氐(しで)神社に合祀され、旧社地に社名碑だけが残っている。
八幡神社の遺品は、八幡鳥居様式の鳥居が志氐神社東口に、石灯籠が東海道沿いの志氐神社一の鳥居脇に移設されて残されている。

羽津郷土史と民俗研究会
四日市市波津地区市民センター 」


写真3のお地蔵さまは、珍しい姿( 頭は螺髪、手は来迎印を結ぶ阿弥陀如来の姿)をしており、仏のことをよく知らない石工が刻んだものと言われている。 というのが面白いですね。


【かわらずの松と光明寺

13:16 かわらずの松
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案内板
東海道
かわらずの松

この松は樹齢約二百年で江戸時代より東海道を行き交う旅人を見守っていたことだろう。
昭和十三年、国道一号線が出来るまでは幹線道路として往来が激しく賑わった道路であった。
戦前は、この付近の東海道沿いには多くの松が植えられていて、松並木の風景が見られたが、戦後は経済の八点に伴い、道路の拡張と松くい虫の被害で東海道の松並木が姿を消した。
現在四日市では、往時の松が残っているのは、日永地区と羽津築の二本だけとなった。
羽津地の松を、その昔この地域を「かわらず(川原須)」と呼ばれており、その地名をとって「かわらずの松」と命名し、いつまでも愛護していきたい。

平成十九年六月吉日

羽津地区 八田第二自治
かわらずの松保存会 」


地名と、変わらないでほしい、と願う思いが合体した命名で、胸が熱くなりますね。


13:23 光明寺
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光明寺 羽津地区紹介サイトより

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光明寺は、元々は大矢知村青木谷にあったという。弘仁年間に空海が諸国を巡回した時に小堂を建てたのが始まりと伝えられている。寛正元年(1460年)に下野国高田の専修寺第10世眞慧上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたとされる。

享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称した。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより高田派から本願寺派に転じたとされる。

寛文3年(1663年)2月12日に、雷災により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明である。 第5世俊応の妹せつが青蓮院宮に仕えた関係で、皇族所縁の品々を下賜され保管していたが、戦災で焼失した。
慶長9年(1604年)に顕如上人影像が、また寛永10年(1633年)に上宮太子及び三朝七高僧の画像が下付されており、寺院化したのは江戸時代に入ってからであろうという説もある。

四日市市史によると、本堂、鐘楼、庫裡が寺院建築として文化財的価値があるとされている。

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【多度神社と三ツ谷一里塚跡】

13:41 分岐
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斜め左の道に入ります。



13:42 多度神社
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桑名の多度大社の分霊を祀っています。明治40年に海蔵神社に合祀され、昭和20年には、戦災により焼失しましたが、昭和25年に再建され、正式に三ツ谷の「多度神社」として承認を受けました。その後老朽化により、平成26年に拝殿が再建されました。


一村一社制で、他の神社に合祀され、後にふたたび分祀して、正式に常任されて現在に至る、という神社が多いですね。

人間側の都合で神様の住まいを移動する、というのが分からないです。それぞれ由来があってその地に祀られているのに、
勝手に合併するなんておかしい。元に戻すことに成功した地域の人々の努力に感動します。

13:43 三ツ谷の一里塚跡
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案内板
「 一里塚は、江戸時代の初め、幕府が東海道をはじめとする五街道を整備した際、江戸日本橋を起点として一里(約4キロメートル)ごとに街道の両側に土を盛り、榎や松を植えて旅人の目印にしたものである。
 東海道の三ツ谷には、かって一里塚があった。しかし、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道分間之圖」(元禄3年〈1690〉)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当たった辺りに記されている。
 そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚跡とし、石碑を建てて後世に伝えることにした。

  平成13年(2001)3月吉日
  海蔵(かいぞう)地区地域社会づくり推進委員会 」

【マップをいただく】

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三ツ谷一里塚跡の写真を撮っていたら、急に声をかけられてビクッとしてしまいました。

自転車に乗ってきたおじさんが、

「この近所に住んでいる者で、怪しいものではない。もしよかったら、この辺りのマップを持っていってください」

と、写真の赤い表紙のマップをくださいました。
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先日、東海道ウォーカーが、橋(目の前の海蔵川にかかる海像橋)を渡ったら、本当はすぐ左に曲がらねばならないのに真っ直ぐ行ってしまったので、自転車で追いかけて道を教えたそうです。

ありがたいことです。

東海道ウォーカーみんなの代表で、ありがとうございます。

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【海蔵橋を渡る】

13:47 海蔵橋を渡る
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教えていただいた通り、橋を渡ったらすぐに左に曲がり、

13:49 分岐を斜め右へ。
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この辺りは、写真のような道標がたくさんあります。
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2度目の東海道17日目の7(四日市宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/01/28/222041