2度目の東海道11日目の3
5月2日(木)の3
【七曲り坂から日坂宿へ】
9:53 二の曲と沓掛
案内板
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「二の曲り」と「沓掛」
「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの急カーブを指しています。
「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を山の神に手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれています。
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この辺りはこわめし坂級の急傾斜で、さらに急カーブ。
車通行禁止になっているぐらいの急傾斜ですが、こわめし坂より傾斜は急でも、短いので、それは助かります。
この坂の途中で休憩していたら、厳しい顔をして早歩きしているご夫婦らしき男女ペアが抜かして行きましたが、その後も日坂宿で見掛けましたが、トイレ休憩以外は見物など何もせずにどんどん行ってしまって、あれでは何が楽しいのだろう。
ゴールデンウィーク中に行けるところまで行こうという算段なのかな。女性のほうが既に足を傷めている感じで、大丈夫かなあ、と、他人事ながら心配になります。
坂を降りきる頃、国道1号線を見下ろし、
どんどん下って、今度は国道を潜り、日坂宿へ。
以前はそんな立て札なかったんですが、日坂宿(にっさかしゅく)に行くには、歩道橋を渡ってください、とありました。
見ると、かなり左の方で、歩道橋ルートで行くと、常夜燈を見逃します。
さっきのご夫婦は、歩道橋ルートではなく、常夜燈のある方から歩いてきました。
【日坂宿本陣跡】
10:07 日坂宿本陣跡
10年前のブログ
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日坂宿は昔の面影を残した町並みで、屋号を書いた木の札が掛かっています。
本陣跡は幼稚園になっていました。
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今回来てみたら、本陣跡は幼稚園ではありませんでした。
こちらの写真が10年前。幼稚園の建物が写っています。
10:08 問屋場跡
10:09 池田屋
脇本陣黒田屋 ( 10年前に撮った写真)
ふじのくに文化資源データベースより
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日坂宿旅籠『池田屋』
江戸時代の情緒を醸し出す
『東海道五十三次』の江戸側から数えて25番目の日坂宿。宿内で旅籠(はたご)として宿泊業を営んでいた池田屋は、現在は一般の方の居宅となっていますが、その美しい外観が目を引きます。当時の造りではないようですが、往時をしのばせ、街道を行く旅人の目を楽しませてくれます。
この池田屋のほか、街道沿いの家々には天保11年(1840年)当時の屋号が書かれた木札が掲げられており、江戸時代の情緒がとてもよく感じられます。
日坂宿は宿場としての規模は大きくなかったものの、今もなおその町並みが多く残る町として、東海道ウォーカーに人気のスポットとなっています。
脇本陣『黒田屋』跡
堂々とした構えをしのぶ
脇本陣とは、大名・幕府役人などが宿泊・休憩する本陣の利用が重なって宿泊などができない場合に、代わりをつとめる予備宿舎のことです。
日坂宿の脇本陣は、時代とともに移り変わりながら何軒かがつとめ、この場所には幕末期に日坂宿最後の脇本陣をつとめた『黒田屋(大澤富三郎家)』がありました。
現存してはいませんが、文久2年(1862年)の古文書によると『間口8間、奥行15間、畳101畳、板鋪(いたじき)15畳、惣坪数〆120坪』の堂々とした建物だったようです。のちに、明治天皇の小休所としても使われました。
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【藤文とかえでや】
10:10 藤文
かえでや
屋号かえでやと藤文が合体した家。ここの裏には公衆トイレがあります。
この建物は、日坂宿で長い間問屋役を務めた伊藤文七の屋敷で、明治からは日本最初の郵便局のひとつだったそうです。
藤文が江戸末期、かえでやが明治初期に作られた建物だそうです。
掛川市HPより
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伊藤文七邸「藤文」
日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七の自宅で、「藤文」は屋号です。
伊藤文七は安政3年(1856年)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860年)から慶応3年(1867年)にかけて日坂宿の問屋役を務めました。維新後の明治4年(1871年)には、日坂宿他27カ村の副戸長に任ぜられました。
その間、幕府の長州征討に50両を献金、明治維新のときは官軍の進発費として200両を寄付しています。
土蔵
当時何棟かあったと云われているうちの一棟が、修復され現存しています。
明治4年(1871年)郵便制度が発足すると同時に、日本最初の郵便局のひとつとなった建物と云われています。
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【旅籠 萬屋】
10:12 萬屋
掛川市HPより
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萬屋はもっぱら庶民の泊まる旅籠でした。
間口が4間半(約8.2メートル)であり、幕末としては中規模の旅篭です。1階が「みせ」や「帳場」で、2階が宿泊のための「座敷」というごく普通の店構えです。
表の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店舗建物の使用であり、昼間は障子戸、夜は板戸の様は、日坂宿では昭和20年代まで数多く見られました。
日坂宿は嘉永年間に大火災にあい、萬屋の土間下からも当時の焼土がみられ、それを裏付けています。このことと建物内部の柱が差鴨居の多用によって、かなり省略されている点等から考慮して、嘉永から安政にかけて建築された建物と思われます。
当時、1階はすべて板間で、事ある時のみ畳を敷いたと思われます。
1階に通り土間がないこと、2階正面の出格子が掃き出しで格子戸がなく、建ちの低い手摺のみで開放的であること等が、一味異なった構えの旅籠です。
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【旅籠 川坂屋】
10:14 川坂屋
掛川市HPより
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日坂宿の旅籠屋で、江戸時代の面影を遺す数少ない建物のひとつです。
江戸より招いた棟梁の手で、精巧な木組みと細やかな格子が造作されたといわれています。身分の高い武士や公家などが宿泊した格の高い脇本陣格であったことが伺えます。
旅籠屋としては、明治3年(1870年)まで存続していたようですが、以後も要人には宿を提供していたとも云われています。
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現在は、土日祝日のみ公開しています。
10年前に来た時は、残念ながら平日だったため、扉は固く閉ざされていました。
今日はwelcomeな雰囲気で、受付の女性の他に、案内をしてくれるシルバーボランティアさんがいましたが、靴を脱ぎたくなかったので、上がらずに土間や裏庭から写真を撮らせてもらいました。
裏には立派な茶室もありました。
記帳をしたら、黒飴をいただきました。
川坂屋を出て歩いていたら、昨日がボランティア当番だった、というシルバーさんに声を掛けられ、川坂屋に立ち寄った、と言ったら喜んでお礼を言われました。
せっかく開いていても、素通りしてしまう人が多いのかな。
靴を脱ぎたくない、というのもあるんでしょうね。
【相傳寺】
10:19 相傳寺(相伝寺) 秋葉常夜燈
千浦地蔵
日限地蔵
相伝寺(そうでんじ)は、遠州三十三観音第二十一番札所。境内には、秋葉常夜燈、本陣扇屋初代当主、片岡清兵衛の墓、延命日限地蔵、千浦地蔵(六地蔵)、庚申塔があります。
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「 相伝寺」は、日坂本陣扇屋当主片岡清兵衛が京より僧を招いて慶長2年(1597)に開基した。清兵衛は、当時、役人大名による日坂宿の人足手当ての支払いが、三年後に履行されるという習慣のために困窮するのを見兼ね、江戸幕府に直訴して死罪となった義民である。しかし直訴は認められ、日坂宿には毎年五百十六俵の米が支給されるようになったという。日坂では今でも清兵衛を「五百十六俵様」と呼んで敬っている。
清兵衛は観音信仰篤く、その資材をなげうって創建したのが現在の相伝寺である。なお、片岡家は代々清兵衛を名乗っており、上の清兵衛が開基清兵衛と同一人であるかは不明。
観音堂脇には、三十三体の観音石像、廃寺となった威法院の千浦地蔵(六地蔵)、延命日限地蔵などが安置されている。
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東海道を歩いていると、他でも日限地蔵を見かけるので、調べてみました。
日限地蔵 wikipediaより
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日限地蔵 (ひぎりじぞう)は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。
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【日坂宿出口】
10:22 高札場跡
なかなか圧巻です。
10:22 下木戸跡
下木戸は、京方見附ということもありますね。素敵な町並みの日坂宿ともお別れです。電車が通っていない場所は、昔ながらの町並みが残りやすいみたいですね。
2度目の東海道11日目の4(掛川宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/23/172216