紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き11日目の2(小夜の中山)

2度目の東海道11日目の2

5月2日(木)の2


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【小夜の中山への急坂】

小夜の中山への坂道について、10年前のブログ

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【 小夜の中山への茶畑】

これから道は小夜の中山に向けて上りになります。こわめし坂真っ青の急坂を上り、丘陵の尾根道に出ると、坂は上ってはいるものの、茶畑の中の最高に気持ちいい道。風と日差しを胸一杯に受けて、ちょっと両手を広げてタイタニック風に深呼吸して…

一人旅は気楽。ペースも好きでいい。やたら速く歩くときもあれば、のんびりのびのび、の時もある。

幸せだ。

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この写真は、今回撮ったもの。
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こちらの写真は、10年前に撮った写真です。
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歌人に愛された小夜の中山】


阿仏尼の歌碑。
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ふじのくに文化資源データベースより

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阿仏尼の歌碑

歌人に愛された小夜の中山

東海道の三大難所と呼ばれた『小夜(さよ)の中山』。中山峠は多くの旅人たちを苦しめましたが、早くから東海道の歌の名所としても知られており、数々の和歌や俳句が詠まれています。
東側から峠に向かう上り坂の入口には、鎌倉中期の歌人『阿仏尼(あぶつに)』の歌碑があります。碑には、阿仏尼が記した紀行文『十六夜日記(いざよいにっき)』の一節「雲のかかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月」と刻まれています。
周囲には、このほか西行(さいぎょう)法師や松尾芭蕉など様々な人たちの碑が点在しています。

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こちらの写真は、その近くにあった小さな社。
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そして、久延(きゅうえん)寺。
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【久延寺の夜泣き石】


10年前のブログ

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まずは久延寺。

掛川城主、山内一豊が、関ヶ原の合戦に向かう家康を接待した茶室跡。家康手植えの五葉松。

そして夜泣き石。昔、妊婦が山賊に殺されたが、お腹の子は助かり、久延寺の住職が水飴で育てたそうですが、殺された母の霊が石にこもって毎夜泣くので、読経して慰めたそうです。

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夜泣き石。
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夜泣き石の伝説 Wikipediaより

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夜泣き石の伝説

小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所である。曲亭馬琴の『石言遺響』(文化2年)(1805年)によれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里(現・静岡県菊川市菊川)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。そこを通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。

その時お石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれた。生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。

そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである。

その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号をきざんでいったという 。

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徳川家康お手植えの五葉松の跡の石柱。
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こちらの写真は、山内一豊が家康をもてなした茶室跡ですが、今回見つけられず、この写真は、10年前に撮った写真です。
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【子育て飴】


久延寺の前にコミュニティセンターがあり、「命なりけり学舎」と書いてあるのが面白いと思いました。
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小夜の中山といえば、西行法師の、

「年たけてまた越ゆべしとおもひきや
命なりけりさやの中山」

が有名なので、そこからとった名前です。

その斜め前に扇屋。
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江戸時代創業の茶屋で、子育て飴を売っていますが、今日はお休みでした。

10年前に来た時も閉まっていましたが、その日は平日でした。

今日は土曜日だし、ゴールデンウィークなのに閉まっているってことは、もう営業していないのかも、と思い、後で調べたら、日曜のみ営業していて、今年になって日曜にここで子育て飴を買った人のブログがありました。

夜泣き石は、国道1号線の中山トンネル脇にもあって、その横の小泉屋でも子育て飴を売っているそうです。


西行法師の命なりけり】


10年前のブログ

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西行も越えた難所、小夜の中山】


扇屋の向かいの小夜の中山公園に、西行の歌碑があります。すごく大きい切り株に見立てた歌碑で、大きいので回りをぐるぐる回らないと読めません。

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歌碑には、こうあります。

東のかたへあひ知りたりける人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔になりたるける思ひ出でられて
年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり さやの中山 

西行法師69歳の作。

西行は23歳で出家し、3年後の26歳で奥州への旅に出ます。

その時、越えたことのある小夜の中山。

そして、69歳の老境で、また再びこの難所を越えることとなった西行が歌ったのがこの歌。

年老いて 再び越えることがあろうなどと思ったであろうか、これも命あってのことと、小夜の中山を再び越えつつ、しみじみ思うのです。

この歌についての解釈、感想は、いろいろあるんですね。

ネットで拾った幾つかを挙げておきます。

「花と月を愛で,旅に生きた西行の人生がここに凝縮されている.」

「景物としての、伝統的な小夜の中山を詠んだだけのものでなく、伝統的な歌枕の地で、西行がわが命を直視した結果から生まれる喜びの、感動の詠出であった」

「長い人生の時間を一瞬にちぢめてのはげしい詠嘆とともに、また、ここまで年輪を刻んできた自らの命をしみじみと見つめ、いとおしんでいる沈潜した思いが、一首にはある。」

「四十年以上も前に、はじめて小夜の中山を越えたことを憶い出して、はげしく胸にせまるものがあったに違いない。その長い年月の経験が、つもりつもって『命なりけり』の絶唱に凝結したのであって、この歌の普遍的な美しさは、万人に共通するおもいを平明な詞で言い流したところにあると思う。」

「戦乱の世を生き延び、仲間は次々とこの世を去った中、漸く生き延びた自分の命に深く感動している。」

変わったところでは、
「これは単なる旅の感慨ではなく、越すに越されぬ、人には言えない恋について歌っている」

というのもありました。

私は、西行個人の経験から来る深い思いがあったにせよ、万人に普遍的に通じる思い、を取りたいと思います。

私はまだまだ足腰丈夫で、山坂もずんずん越えられます。でも、あと15年、20年して、もしここに来ることがあったら、旅の思い、今までの人生、きっと一気に込み上げてくると思います。

そして、老境にはまだまだあるけれど、学生時代にガンガン歩いていて、就職、結婚、子育てでブランクがあり、20年数ぶりに歩き始めて、歩きながらいろいろ思うところが沢山あり、だから、西行の歌碑を見て、私なりにいろいろ思うこともあるのです。

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私が小夜の中山が大好きなのは、茶畑の中の静かな歩きやすい道だからもありますが、それだけではなく、西行法師の歌碑があるからだと思います。

また10年後、20年後、来ることがあるのかなあ。


【小夜鹿一里塚跡】

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また暫く行くと、佐夜鹿(小夜の中山)一里塚がありました。
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新明神社。
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【鎧塚、歌碑、句碑】

この道沿いには、小夜の中山に関する歌碑があちらにもこちらにもあります。

蓮生法師歌碑。
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「甲斐が嶺ははや雪白し神無月
しぐれてこゆるさやの中山 」


鎧塚。
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暫く行くと、左手(北側)の起伏したところに「鎧塚」があります。 建武二年八月、北條時行が鎌倉幕府を再建しようと兵を挙げたとき(中先代の乱)、遠江国の守護として三河から来たばかりの今川範国が時行の家臣名越太郎邦時を打ち取りました。このとき、範国自身も戦死してしましたが、名越氏の鎧を埋めて供養した所と伝えられています。
後世になって地元の人が掘ってみたところ、鎧は出てきませんでしたが、鎧塚云々と書かれた丸石が発見されたそうです。

紀友則の歌碑。
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「東路のさやの中山なかなかに
なにしか人を思ひそめけむ 」

道のあちこちに点在する歌碑や句碑。

藤原家隆朝臣
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「ふるさとに聞きし嵐の声もにず
忘れね人をさやの中山 」

芭蕉
「道のべの木槿は馬にくはれけり」

壬生忠岑
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「東路のさやの中山さやかにも
見えぬ雲井に世をぞ尽くさん」

芭蕉
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」

詠み人知らず 古今和歌集
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「甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく
横ほり臥せるさやの中山」


芭蕉の句碑は、金谷にもあって、写真をアップしたので、ここでは芭蕉以外の歌碑をアップしました。


【どこからおいでました?】


9:27 白山神社
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9:33 馬頭観音
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写真の、一見野面積みみたいな(でも、石はきれいに切ってありますが)壁には見覚えがあります。
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この先緩くカーブしながら下っていくのですが、ここで10年前にはこんなことがありました。

10年前のブログ

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気持ちよく坂を下っているとき、初老の東海道五十三次歩きの人とすれ違い、挨拶しました。「今日はどこからおいでました?」と聞かれ、金谷から、と答えると、それはすごい、というような反応。

「今日はよい天気だで、よかったですね」
と言われ、「はい」とにこやかに答えました。

あちらは上りだったので、話している間、休憩体勢でしたが、私はちょうど、少しピッチを上げかけていたので、足は止めずに挨拶しました。一旦足を止めると、戻すのが大変なんで、ゆっくりであっても足は止めない。

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【涼み松と蛇身鳥伝説】

9:36 涼み松広場
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芭蕉句碑
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妊婦の墓
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カワサキ機工株式会社 お茶街道サイトより

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[涼み松]掛川市小夜鹿字小夜鹿

白山神社からゆるやかな下り坂を250mほど下った南側に、涼み松広場があります。ここは、東海道の傍らにあった大きな松を偲ぶ所です。往時は峠を歩く旅人たちに木陰を提供していた松のことを、ここで詠まれた芭蕉の句「命なりわづかの笠の下涼み」にちなんで涼み松と呼ぶようになり、周辺の地名も「涼み松」の字名が名付けられています。松の木は代替わりをして若い木が植えられています。


芭蕉の句碑]掛川市小夜鹿字小夜鹿

涼み松公園の一角に芭蕉の句碑があります。

佐夜の中山にて
命なりわづかの笠の下涼み
杜牧(とぼく)が早行(さうかう)の残夢、小夜の中山にいたりて忽ち驚く
西行の歌に有名な小夜の中山を通っていると、ほんとうに日陰がなくて照りつける陽を受けながらの峠越えはつらい。まさに「命なりけり‥‥」だ。木陰といえば笠のようにわずかな陰をみつけるくらいだ。

[ 妊婦の墓]掛川市小夜鹿字小夜鹿

涼み松の向かい側の茶畑の中には、蛇身鳥伝説にまつわる妊婦の墓があります。妊婦とは、三位良政卿と月小夜姫との間に生まれた娘のこと。名を小石姫といい、蛇身鳥一族の話を知り、悲しみから松の木で首をつったと伝えられています(母親が姫を嫁がせようとしたところ小石姫がすでに計之助の子を宿していることがわかり、悲嘆に暮れて亡くなったとの説もあり)。墓石には「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」と刻まれています。


[蛇身鳥物語]

遠州菊川の里に、愛宕(あたご)の庄司 平内という狩の好きな男がいました。
平内は、美しい妻と、娘の月小夜と、息子の八太郎と四人で平穏な暮らしをしていました。
しかし、息子と娘は、平内が鳥や獣を捕ってくるたびに、心をいためていました。
「おとうさん、どうか、もう鳥や動物たちを殺すのはやめてください」
八太郎は、何度も平内に頼みましたが、 平内はいっこうにやめようとはしませんでした。

ある日、平内はいつものように山へと入っていきました。
前の日に降った大雪で、あたり一面真っ白でした。
歩いて行くと、行く手にがさがさと黒い影が動きました。
「しめた、大きな熊だ!」
平内が矢を放つと、びゅーんと音をたて、その先でどさりと倒れる音がしました。
白い雪の上には真っ赤な血が飛び散っています。
平内が獲物に顔を寄せたときです。
「おとうさん…」
今にも消えいりそうな声がするではありませんか。
息子の八太郎が平内の狩りをやめさせようと、熊の皮をかぶっていたのです。
平内は涙を流し、わが子を抱きかかえました。
平内が亡骸を抱いて里に帰ると、 妻は変わり果てたわが子八太郎の姿を見て、狂ったように泣き叫び、 そのまま家を飛び出し、菊川の淵に身を沈めてしまいました。
それからというもの、菊川中山、海老名(あびな)のあたりに 夜な夜な奇妙な声でなく怪鳥があらわれて、里の人や旅人を襲うようになりました。
人々は「亡くなった子どもを思う女の化身では」とうわさしました。
それは、頭は鳥で、体は蛇、広げた翼は鋭い刀を編んだようになっている、 世にも恐ろしい怪鳥でした。
里人が困っていると、上杉三位良政(さんみよしまさ)公と屈強な家来橘主計助(たちばなかずえのすけ)が、帝の命令で都から怪鳥退治の武将がやってきました。
ふたりは苦闘の末、見事に怪鳥を討ち取りました。

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この文章には、涼み松広場には代替わりして若い松が植えられているとあります。10年前にといった時は若い松がうわっていましたが、今回は松はありませんでした。根付かなかったのでしょうね。

10年前通ったとき、妊婦の墓に、こんなでんせつがあるとは知らず、旅の途中、妊婦がここでなくなったのだろう、かわいそうに、しか思いませんでした。

こんな伝説があったのですね。



【夜泣き石跡】

9:41 夜泣き石跡
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久延寺のところで紹介した夜泣き石は、最初はここにあったそうです。

夜泣き石を描いた広重の絵。
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この絵が小夜の中山から日坂宿への道に展示されています。

この絵を私風に描いたのが、一枚目の絵手紙です。


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2度目の東海道11日目の3(日坂宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/23/164725