2度目の東海道11日目の1
5月2日(木)の1
早朝に家を出て、7:34に金谷着。
まずはちょっと寄り道して、芭蕉句碑を見に行きました。
10年前も見に行きました。
10年前のブログ
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
【 道のべの木槿】
「道のべの木槿は馬に喰はれけり」
「野ざらし紀行」の句です。学生時代、旅の文学というゼミをとり、最初にこの「野ざらし」をやったので懐かしく、だからこそ、わざわざ寄り道して見に行きました。
その先、常夜灯がありましたが、まさに松茸でした。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
長光寺への道の斜面には、マーガレットがきれいに咲いていました。
7:48 金谷坂の石畳。
平成の道普請でよみがえった全長430メートルの石畳。
上り始めてすぐに、右に石畳茶屋。
前回4月27日に金谷まで歩いた日は、石畳茶屋でお昼を食べましたが、今朝はまだ閉まっていました。
石畳のカーブの先から男の人の野太い大きな叱り付けるような声が聞こえて、危ない人なのかと思いきや、自転車の親子連れで、お父さんが小学校高学年ぐらいの男の子を励ましていました。
自転車を引きながらこの石畳を下るのは容易なことではありません。荷物を持たない徒歩でも石畳を下るのはなかなかつらいのに、タイヤが石にひっかかる自転車を押しながら(ブレーキをかけながら)の石畳下りはつらいことでしょう。
お父さんとは「おはようございます」の挨拶を交わし合いましたが、男の子には声をかけましたが、男の子は無言でうつ向いていました。半べそかいていたのかもしれません。
すれ違ってから、振り向いて二人の写真を撮りました。
【現代の茶摘み】
すべらず地蔵を通り、
金谷の石畳の終点。
お茶の香通りを右に進みます。
お茶の収穫をやっていました。
現代の茶摘みは機械なんだな、と思っていましたが、後で、4月中の早摘みは手摘みでやると聞きました。
【菊川の石畳】
8:06 菊川坂入り口
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
菊川坂は平成13年に『石畳菊川坂助郷伝説』と銘打ち、菊川坂に町内外の方々の手によって山石が敷かれ、611メートルの石畳が復元されました。
菊川坂の一部には江戸時代後期の石畳(平成12年に発掘)が残っています。
坂の途中からはその昔「間の宿(あいのしゅく)」と呼ばれた菊川地区の街並みが一望できます。
平成13年11月26日に県指定文化財に指定されました。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
石畳に雑草が生えているところもありました。
茶畑の中を通ったり、松並木があったり、気持ちいい道です。
【菊川の里と白菊姫】
石畳が終わると、菊川の里。
8:25 法音寺入り口
法音寺の裏手に、中納言宗行卿の塚があります。中納言宗行卿については、また後で書きます。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
金谷宿と日坂宿の間は、1里24町。
比較的短い距離でしたが、この2宿の間には小夜の中山という難所が横たわり急坂が統くため、江戸時代に菊川は「間の宿」となって、旅人の疲れをいやしていました。
菊川という地名は、菊川という川が集落の中を流れていることに由来します。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
00Shizuoka静岡観光おでかけガイドより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
<白菊姫の伝説>
南北朝時代(約700年前)、東海道の難所 小夜の中山峠には盗賊が出没。
19歳の一条三位 上杉憲藤(うえすぎのりふじ)が、盗賊討伐のため京都から菊川の里へやって来ました。
長者「愛宕の庄司」の家に滞在する事になり、15歳の娘の白菊姫と恋仲になります。
盗賊を討ち取った憲藤は、観音菩薩像を形見として白菊姫に与えて京都に帰りました。
やがて身重になった姫は、菊川の桜ヶ淵に身を投げましたが体が浮き上がって命拾い。
目の前に観音菩薩像の化身の老僧が現れて、京都へ上るよう勧めました。
いなくなった娘を探した長者夫婦は、桜ヶ淵で網にかかった菊石を供養のため宝盛寺を建てて奉納。
白菊姫は京都で憲藤と再会して、幸せに暮らしたということです。
史実では、暦応元年/延元3年(1338年)3月15日、21歳の上杉憲藤は摂津渡辺河の戦いで討死。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
【素敵な常夜燈と菊石と詩碑と歌碑】
8:29 常夜燈
この常夜燈は鞘堂に入っているのですが、鞘堂の格子の間にカメラのレンズを当てて、素敵な常夜燈を撮りました。
8:31 諸々の碑。
菊石、詩碑と歌碑は、菊川の里会館前に集められています。
菊石
説明板
「 菊川由来の石
その昔附近の川から菊花紋の石が数多く出土されました。その石は菊石 と呼ばれて 川の名前を菊川と名付け地名も生まれました。白菊姫の伝説による菊石は北之1kmの処にある佐夜鹿公民館の傍にあります。
島田市 」
詩碑と歌碑
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
菊川の里会館の入り口横に中納言宗行卿(むねゆききょう)の辞世の詩と日野俊基の哀歌の石碑が建立されています。
菊川の里は、金谷・日坂が東海道の宿場町として繁栄する数百年前の鎌倉時代の初期には既に名の通った「街道の要所」でした。
菊川を有名にしたものの一つに「宗行卿」の故事があります。
承久3年(1221)、承久の乱における鎌倉幕府覆滅計画に加わった中納言宗行は幕府に捕えられ鎌倉に護送される途中菊川に泊まり、宿の柱に辞世の詩を書き残しました。
昔は南陽県(中国)の菊水、下流を汲んで齢を延ぶ、今は東海道菊川の西岸に宿して命を失う。
またその110年後の、「元弘の変」[元弘元年(1331)]で同じ運命をたどった日野俊基が、ここで宗行卿の話を聞き哀歌を残しています。
「古も、かかるためしを菊川の、同じ流れに身をや沈めむ」 (太平記)
菊川の里会館から約750m離れた法音寺の裏手に、中納言宗行卿の塚があります。
法音寺まで約300m、そこから約350mです。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
こちらの写真は、10年前に撮った写真。この時は、菊石はここにはなく、詩碑と歌碑の前に黒い大石もありませんでした。
【市境】
石畳が車道に分断され、菊川の里もそろそろお別れです。
写真のような風景が始まり、いよいよ小夜の中山です。
2度目の東海道11日目の2(小夜の中山)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/23/154733