紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩きの10日目の4(金谷石畳と諏訪原城跡)

2度目の東海道10日目の4
4月27日(土)の4

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【石畳茶屋 meguri】

11:22 石畳入口
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案内板
島田市指定史跡

東海道』金谷坂の石畳

この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿の間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように、山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か三〇メートルを残す以外はすべてコンクリートなどで舗装されていましたが、平成三年、町民約六〇〇名の参加を得て実施されてた『平成の道普請』で延長四三〇メートルが復元されました。
いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三個所だけとなりました。
平成四年三月
島田市教育委員会

11:23 石畳茶屋
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石畳茶屋に来るのはこれで三度目。

2008年に来た時は、石畳茶屋には女性がひとりしかいなくて、けっこういろいろ話しました。

前の晩泊まった宿泊施設は、夕食は出ましたが、泊まったのが日曜の夜で、月曜は休館のため、朝御飯が出なかったので、この石畳茶屋で朝食代わりに磯部餅を食べ、深蒸し茶をいただきました。

お茶が美味しかった。

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2014年9月に娘と蓬莱橋に来たとき、石畳茶屋にも、来ました。

東海道を歩き終わったら必ず来ます、と約束していたけれど、2009年の3月に東海道京都三条大橋まですぺて歩いてからもなかなか再訪できず、やっと2014年9月に再訪したら、経営者が変わり、内装もメニューも、従業員さんも変わっていました。

今日来てみたら、石畳茶屋meguriで、2014年と同じ店ですが、メニューが少し変わっていました。

ランチは、カレーかサンドイッチかミートローフで選べて(値段はすべて1200円)、飲み物が付きます。ケーキは単品だと500円ですが、ランチと一緒に頼むと300円です。

私はジビエのミートローフランチにしました。
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ケーキはおなかと相談で保留にしていましたが、やはり食べることにして、イチゴのタルトにしました。
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私以外の多分みなさん、車でここまで来たお客様ばかりでした。

そして、たぶん有名なんでしょうね。皆さん最初からケーキも頼んでいました。

メニュー的にも空間的にも、子連れが入りやすいという雰囲気では全くないのに、小さい子連れが多かった。


【すべらず地蔵】

石畳茶屋を出て、石畳の坂を上っていくと、三尊のお地蔵様がいます。

12:33 仁誉地蔵尊
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別名「お足地蔵」

地蔵尊の脇に説明書きがありました。
「昔、足の病に苦しんでいた仁一という方が、坂の入口にあった地蔵尊を毎日拝んでいたと。ある日、夢枕に地蔵尊が現れてお告げがあり、旅人の足の無事を祈っていたところ、仁一の足の病もよくなっていた」

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12:34 鶏頭塚
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案内板
「 鶏頭塚

鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。
『曙も夕ぐれもなし鶏頭華』
の句と『六々庵巴静寛保甲子四年(一七四四)二月十九日没』と刻んだ自然石の碑である。
巴静というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人でその教えを受けた金谷の門人たちは、師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが風雅の心ある地元の人々の心配りによって保存が図られて現在に至っている。なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗日本左衛門 がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。

東海道 金谷宿 」

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また、鶏頭塚のすぐ近くに、庚申塔もあります。

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案内板
庚申塔三猿

良き事は
大いに広め
悪しきをば
見ざる聞かざる
言わざるが、
良し 」

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案内板
「 庚申堂の由来

旧東海道の上り下りの旅人達が道中の無難息災、家内安全を祈願して街道筋に点在する効験あらたかな庚申堂に立寄り誠意を込め健忘の成就することを祈念して旅立ったもので、堂宇に猿田彦命およびその主従を合詞して歴年四月『カノエ・サル』の日に追善を施行しております。

平成四年『庚申ご縁年』
....四十年に一度

地元・坂町々内会」

鶏頭塚、庚申塔の並びに、南向延命地蔵尊もあります。
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さらに少し石畳を上ると、すべらず地蔵があり、交通安全と、受験生に人気があるそうです。

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12:42 すべらず地蔵
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案内板
「 長寿・すべらず地蔵尊

このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は『すべらない』という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶う、というところからきています。 」

すべらず地蔵までは、車で来た観光客が結構いましたが、その先はひっそり。
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東海道を支える人たち】

石畳を上りきった辺り、10年前に来た時は、年配の方々が草取りをしてくださっていて、東海道の長い歴史に関わってきた沢山の人達に感謝し、東海道は昔から今まで、そしてこれこらも沢山の人々に整備され支えられて、また次の歴史を重ねていくんだなあ。

上りきって、進行方向ではなく少し戻ったところに芭蕉句碑があります。(12:50)
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「馬に寝て残夢月遠し茶の煙」(野ざらし紀行)

そして、その辺りの台地は一面茶畑でした。
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諏訪原城跡】

箱根西坂の山中城跡は今回パスしたので、今日は時間もあるし、諏訪原城跡はじっくり見て回りました。

川越遺跡の芭蕉庵にいたおじいさんが、諏訪原城跡のパンフレットを持ってきて、二重丸でおすすめされたことも、立ち寄ることにした理由ですが。

次回東海道に来るときは、朝から金谷を出て、小夜の中山~日坂~掛川と、どんどん歩きたいので、それで今日、すべらず地蔵も芭蕉句碑も、諏訪原城跡もじっくり見ました。

10年前に諏訪原城跡に来た時はもっと鬱蒼としていて、一人での見学は怖かったのですが、ずいぶん整備されていました。

12:57 諏訪原神社
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諏訪原城

島田市公式ホームページより

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諏訪原城跡は、牧之原台地の北端部に近い標高212mから220mの台地に立地する山城です。本曲輪東側の斜面は断崖絶壁となっており、当時の大井川は牧之原台地に沿って流れていたことから自然地形によって守られた「後ろ堅固の城」となっており、天正元年、武田勝頼が家臣の馬場(美濃守)信房に命じて築城しました。駿遠の国境に位置し、武田・徳川の双方が国取りの拠点とした城です。その後徳川家康によって攻め落とされ、牧野城として使用されましたが、廃城時期はわかっていません。現在でも三日月堀と馬出がセットになった丸馬出や横堀が良好な形で残っており、戦国時代の山城の特徴を残しています。島田市では史跡整備に向けた発掘調査を実施しており、現在残る遺構は徳川家康による改修の可能性が指摘されています。

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wikipediaより

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諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった戦国時代の日本の城(山城)である。諏訪之原城とも書く。甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。徳川氏時代の城名は牧野城。『家忠日記』には牧野城のほか牧野原城とも記載。東照宮御実紀(徳川実紀)に、牧野の城(諏訪原をいふ)と記載。

(中略)

現在は建築物は残っていないものの、堀・曲輪・馬出などの遺構がはっきりと残り、戦国時代の武田氏・徳川氏の築城様式を知る上で貴重なものとなっている。国の史跡に指定されている。

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案内板
諏訪原城

国指定史跡
昭和五十年十一月二十五日指定

諏訪原城天正元年(一五七三)武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として築かれた規模雄大な山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧の原台地の東北角を占めた天然の要塞であった。

遺構は、本丸・二の丸・三の丸・大手郭・帯郭・西の丸・搦手・亀甲曲輪の八郭から成る特徴ある縄張りにより配置形態のうえから『扇城』とも呼ばれた。
自然堀と、人工の大小堀が十三本ありいずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は用いられていない。
武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祭ったことから、諏訪原城と呼ばれるが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称が見られる。

島田市教育委員会


大手曲輪(おおてくるわ)
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曲輪 wikipediaより

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曲輪(くるわ)は、城の内外をさ土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。

主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。

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大手門とほほ同義で、城の正門にあたります。


大手北外堀
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案内板
「 大手北外堀(おおてきたそとぼり)

大手曲輪は、諏訪原城の台地側前面に方形に突出した曲輪で、その位置と構造から、最終段階の改修工事に際し、新たに敷設されたと考えられる。
大手曲輪は、大手北外堀と大手南外堀によってコの字型に囲まれ、古絵図では、西側前面に巨大な丸馬出と三日月堀が描かれている。この三日月堀の一部が平成2(1990)年の発掘調査で確認され、その存在が証明された。平成23(2011)年度、大手北外堀の発掘調査によって、断面形状が逆台形の箱堀であることが判明した。堀幅は、約5m、深さは大手曲輪側で約6mであった。惣曲輪側の堀の法面では、堀を堀削りする段階で足場として使用されたと考えられる幅50cmのテラス状の遺構が確認された。大手曲輪側では上面では削られてはいたが、堀を掘った残土(牧の原礫層)で構築された土塁を検出している。 」

惣曲輪
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二の曲輪
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案内板
「 二の曲輪

諏訪原城は、本曲輪を扇の要にたとえ、扇状に曲輪が広がっているため、江戸時代には『扇城』と呼ばれることもあった。二の曲輪は、南北約315m、東西約75mの広さを誇る城内最大規模の曲輪である。平成22年の調査で、二の曲輪馬出との通路が土橋ではなく、通路中央部が途切れ『木橋』となることを確認した。虎口(こぐち)部分では、城門(間口約2.4m、奥行き約1.5m)の礎石(建物の土台となる石)4ヶ所を、曲輪内の調査では、外堀と平行する土塁の基底部(幅約20m)と土を突き固めた版築(はんちく)が確認されている。この曲輪を南北に仕切る土塁は、西側に設けられた土類との接点で幅約1m弱の、大人一人が通れる程度の間口部が検出され、二の曲輪南北間を繋ぐ通路跡と推定される。 」

この案内板に出てくる馬出とは…

馬出(うまだし)

「日本の城〜Japan castle 」より

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「馬出し」とは、出入り口のすぐ外側(堀をわたったところ)にあって、土塁や石垣、堀でつくっている小さな空間のことです。

「馬出し」があることで、出入り口はより防御力が増し、城内から出撃するための拠点にもなります。

攻撃と防御、両方の機能をもちます。

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このサイトの説明は分かりやすく面白いので、本当は全文載せたいのですが、長くなってしまうので、興味のあるかたはこちらのサイトを覗いてみてください。

https://japan-castle.website/oshiro-lesson/castle-basic-umadashi/

実際の馬出の例として諏訪原城の半円型馬出についても解説されています。

また、虎口(こぐち)とは…

wikipediaより

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虎口(こぐち)とは中世以降の城郭における出入り口のことで、「こぐち」には狭い道・狭い口という意味がある。「小口」とも書く。

概要

虎口は城郭、あるいは曲輪の正面開口に当たり、城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となるため厳重に防御される。古くは開口に木戸等の門を設け、両脇に櫓を建てて攻め手に備えるなど簡易なものであったが、戦国期に著しい発展を遂げ、城の縄張の重要要素となっていった。

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本曲輪
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案内板
「 本曲輪

本曲輪は、守城戦において最終拠点となる最も重要な曲輪である。平成16年度から平成19年度にかけて実施した発掘調査で、焼土(しょうど=焼けて赤黒くなった土)を挟んで上下二時代の遺構面(当時生活していた平坦面)を確認した。焼土より下の遺構面が武田氏の時代のもので、上面が徳川氏の時代と考えられる。武田氏時代の遺構は、建物の柱穴(柱を建てるための穴)を、徳川時代の遺構は、本曲輪虎口部分で城門(間口約2.1m、奥行き約1.5m)の礎石(建物の土台となる石)4ヶ所を確認した。この虎口部分では、L字型に囲む桝形の土塁基底部を検出し、本曲輪を囲む東側土塁の上面平坦部で、建物の基礎(細長く連続した布基礎)と思われる遺構を確認した。本曲輪前面の内堀の規模は、堀幅約20m、深さ約10m。堀は逆台形の形に掘られた箱堀で、堀の底の幅は約6.75mであった。また、北側斜面の平坦地も堀(横堀)であることが判明した。かわらけや鉄砲玉、炭化米や土壁の破片、 瀬戸美濃で作られた丸碗などが出土している。 」

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道標と諏訪原城跡の看板
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案内板
諏訪原城
国指定文化財
昭和五十年十一月二十五日指定

史跡諏訪原城跡は東海道武田領の先鋒を勉める重要な拠点の金谷台に天正元年(一五七三年)武田勝頼の臣馬場美濃守の縄張りで築かれた希に見る規模雄大な山城の跡である 」


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カンカン井戸
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何故そう呼ばれるかはわかりません。この名前が印象的なので、検索すると沢山の方がブログに書いていました。


二の曲輪東内馬出
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案内板
「 二の曲輪東内(ひがしうち)馬出

城内の南東端は、3ヶ所の小規模な馬出を折り重なるように配置し、防備を固めていた。その中で、堀を挟んで二の曲輪に隣接する馬出が、二の曲輪東内馬出にあたる。平成25(2013)年度の発掘調査により、二の曲輪との境の堀を調査したところ当初の薬研堀を箱堀に改修したことが判明した。武田氏段階の薬研堀を、徳川氏段階で箱堀へと変化させたと考えられる。薬研堀は破壊を受けてはいたが、良好に残存する箇所で、幅が約1.5m、深さ60cm程であった。箱堀は幅約7.0m、二の曲輪側で深さ約4.4mと、拡張している。曲輪内で検出された土塁は、当初のものを崩し、再構築した痕跡を確認した。また、馬出入口の土塁最先端部で、土塁先端と平行する直線状に並んだ山石6個を確認することができた。この直線状の石列の用途は不明であるが、転落防止のための構造物が存在した可能性も指摘されている。 」

案内板に書かれている、薬研堀とは…

薬研堀 wikipediaより

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薬研堀(やげんぼり)は、

堀の形状の一つで、薬研のごとく断面がV字形になっているもの。

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さらに、薬研とは wikipediaより

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薬研(やげん、旧字体:藥硏)とは、薬材(生薬など)などを碾(ひ)いて粉末化したり、磨り潰して汁を作ったりするための、伝統的器具。

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二の曲輪南馬出
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案内板
「 二の曲輪南馬出

城域の南東端に配置された3ヶ所の小規模な馬出の中で、南西端に位置する城内最小規模の丸馬出(まるうまだし)になる。平成26(2014)年度に、東海道側に設けられた二の曲輪南馬出の南側に位置する外堀の発掘調査を実施した。その結果、堀の形状は、断面逆台形の箱堀と判明した。堀幅は約13m、深さは東海道側で約7.8m、底面幅約2.8mと、馬出の曲輪面積と比較すると大規模で、二の曲輪東馬出南側の外堀と共に、城の南側の防備を固める目的が考えられる。東西約20m×南北約12mの半円形を呈す曲輪内部に土塁の痕跡が見られないのは、二の曲輪東馬出同様、小規模な曲輪面積の有効活用が優先されたためと思われる。特筆されるのは、曲輪内部の貼り床面直上で、27点の鉄砲玉が集中して出土したことである。 」


二の曲輪東馬出
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案内板
「 二の曲輪東馬出

城域の南東端に配置された3ヶ所の小規模な馬出の中で、最南東端に位置し、諏訪原城の南東側防衛ラインの要の役割を担う曲輪でもあった。平成27(2015)年度に、二の曲輪東馬出南側の外堀の発掘調査を実施し、断面の形状がV字型の薬研堀であることが判明した。堀幅は約9.3m、曲輪側の深さ約6.7mと、最南端を守るには十分な規模と評価される。曲輪内部に土塁の痕跡は認められず、小規模な曲輪面積の活用が、土類構築より優先された結果と思われる。曲輪内部では、礎石が確認された灰白土の整地面と、その下層の鉄砲玉が出土される黒色土の整地面の2時期が確認、上層が徳川氏、下層が武田氏段階と考えられる。曲輪出入口では、門礎石と推定される東西に並ぶ2ヶ所の礎石を検出した。東側が主柱、西側が控え柱と思われるが、対を成す礎石は、堀側(北)に存在することが推定されたが、後世の植林等の行為によって除去されてしまった可能性が高い。鉄砲玉と、用途不明の銅製品が出土している。 」

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山城は天守閣は築かず、三日月型の濠が特徴的。

城好きな人って、天守閣が好きなのかな?こういう山城も好きなのかな?

歴史好きな人はどうなのかな?イケメン武将は出てこないけど、ここはロマンを感じるなあ。


Google地図さん、ありがとう】

諏訪原城跡からは、金谷駅に戻ります。

同じ道を戻るのもなんだし、石畳を下りたくない!というのが一番なんですが、遠回りでも茶畑の中の車道を通って帰ろうと思いました。

諏訪原城跡から、金谷の石畳入り口(きたときの出口。芭蕉句碑の近く)に戻った時、Google地図で金谷駅への行き方を検索してみました。

石畳を通れ、と指示されるのかと思いきや、茶畑の中の、お茶の香コースをおすすめされました。

金谷駅まで20分。

13:35 お茶の香通り。いいネーミング!
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茶畑の中の車道、気持ちよいです。たまにしか車は通らないし。
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茶摘みも見ました。
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私はてっきり、ずっと車道なのかと想っていたら、途中で茶畑の中の斜面(舗装されていない、軽トラぐらいなら通れる道)を指示されました。

なんだか大冒険の気分。茶畑の向こうに金谷の町も見下ろせる絶景。
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こんな道、Google地図に聞かなきゃ分からなかった。Google地図さん、ありがとう。

暫く行くと、軽トラで道を塞がれていましたが、その塞がれた道をGoogle地図は指しているので、バランスよい人でないと車に触らずには通れない縁石みたいなところに乗って車を避けて、さらにこの先、もう車は通れない狭い道にシートが敷いてありましたが、シートを踏まないように歩いていたら、すぐ近くで茶摘みをしていたおばさんに何か言われました。

聞き取れなかったけれど、語気が荒かったので、多分、

「こんなとこ、入るんじゃない!」

と怒ったんだと思います。

こどもの時、農村にいたことがあるので、田んぼの畦道を踏んではいけない、と言われたものですが、私はお茶の木に影響ある歩き方はしていないし、(むしろ、あの軽トラが茶畑にとってよくないと思う)、Google地図が指示するということは、ここは地図に載っている道であって、茶畑の持ち主の私道ではないのです。

だから、無視してどんどん降りました。

急坂だと距離を稼げて、気づいたら駅への残り時間、大分減っていました。
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しかし、このまま急坂を下り続けるのかと思っていたら、右へ曲がるように指示があり、茶畑の中の素敵な道に出ました。

やがて車道に出て、石畳茶屋に戻ってきました。
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13:54 石畳茶屋でトイレを借りて(駐車場に、自由に使えるトイレがあります)、戻ってきたら、ちょうどリュックを下ろして休もうとしている親子(お父さんと中学生ぐらい)がいて、息子さんが私と同じ、「ちゃんと歩ける東海道」を持っていたので、

東海道を歩かれているんですか?」

と声をかけました。

今日はこれから小夜の中山~日坂~掛川と、歩くそうです。

私は今日は山の中で行き暮れたら悲惨だと思ってこれにて撤退するのですが。

もう帰ると聞いてむしろ向こうは驚いていました。

私は「男の人なら大丈夫と思いますが、私だったら暗くなっちゃうと怖いので」

と言ったら、

父「1日どのくらいの距離を歩かれているんですか?」

私「実は私は東海道、2回目歩いているんです。10年前は1日30~35キロ歩いていましたが、結構辛いので、今回は1日20キロぐらいにしています。」

子「膝にきちゃうんですよね」

おっ、この子、よくわかっている。

「これから掛川までだと大変と思いますが、頑張ってください」

と、別れました。

親子二人なら、暗くなっても大丈夫だろうし、私が10年前歩いた11月はすぐに暗くなったけど、今は日暮れが遅くなりましたもんね。

この後暫くはGoogle地図を見て歩きましたが、2014年に来たときに見つけた駅への近道の急階段(Google地図には載っていない)を見つけて、スマホはしまって駅へと迎ました。

14:05 金谷駅


本日の歩数 26,290歩 16.1km


2度目の東海道11日目の1(金谷駅から菊川の里)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/23/083409



2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/101738

2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/165621

2度目の東海道五十三次歩き 目次3へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/171837

2度目の東海道五十三次歩き 目次4へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/175026


東海道五十三次の絵手紙前半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/000457

東海道五十三次の絵手紙後半へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/065405