紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き10日目の3(金谷宿)

2度目の東海道10日目の3

4月27日(土)の3

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10:37 金谷側の大井川橋の袂
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大井川橋銘板(金谷側)
「大井川橋は昭和3年に架橋された鋼製のトラス橋です。下部は井筒型の基礎と門型の橋脚により構成されています。当時の技術力を結集して建設された最大級の道路橋です。いまなお建設当時の姿をよく残していることから、土木学会選奨土木遺産として認定されました。
平成18年11月 」

「 大井川橋概要

道路の名称 一般県道島田金谷線(旧国道1号)
所在地 静岡県島田市稲荷〜金屋町金谷河原
橋 長 1026.4m
橋の形式 17径間下路式プラットトラス橋
下部工 橋台2基 橋脚16基
建設期間 大正13年昭和3年

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まずは橋から見て左方向へ、土手を少し進みます。車に気をつけて。

10:43 分岐(土手からの降り口)
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道標にしたがって右へ。
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こんな道を歩きます。
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10:45 水神公園

水神公園には、この絵看板があります。人足に担がれた輦台で大井川を渡る女性の絵。
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この絵の人足は、胸辺りまで水に使っているので、料金は、

乳通78文(1,560円)

人足が何故か5人なので、1,560×5=7,800円

輦台だと普通は人足は4人なのに、私がモデルにした公園の絵は、何故人足が5人なんだろう。

他にもこの絵の不思議なことは、輦台上の女性は着物の前合わせが左前になっている!(左前はタブーなんですよね。お葬式の時の、亡くなった方の着物の着方なんですよ)

版木が表裏反対(反転?)で刷ってしまったのか?

もともと絵の描きまちがい?

まさかの、この女性は鬼籍に入った人?

謎です。

この絵看板の左下に、何やら書いてあります。
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絵看板の左下の説明
「 大井川の川越し

江戸時代、大井川は東海道唯一の関所川として、橋を架けることも船で渡ることも許されませんでした。
大名行列や一般の旅人たちは、大井川を渡るためには川越し人足の力をかりるしか方法がありませんでした。
いくら鍛え抜かれた人足とはいえ、滔々と流れる川の流れを見ながらの輦台や肩車での川越は、さぞかし生きた心地がしなかったことでしょう。 」

水神公園には、義人 仲田源蔵の像もあります。
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案内板の石碑
「 義人 仲田源蔵経歴

 仲田源蔵 は天保十二年(一八四一)醤油屋三代目として金谷宿八軒屋に生まれ、二十六歳で家督を継ぐ。
 明治三年五月(一八七〇)に新政府から大井川川越制度廃止が発令され、島田、金谷合わせて一二〇〇名の川越人足が失業し困窮を極め、見かねた源蔵は私財を投じて援助しますが限りがありました。
 その後、求められて大井川金谷方川越人足総代を引き受け、島田郡政役所等に人足窮状を嘆願するが却下される。この上は政府に訴える他ないと上京し、十一月伊達民部郷に直訴に及ぶ、捕らえられ拷問を受けるが訴状事実が判明し釈放される。
 源蔵の熱意が政府を動かし、一戸あたり金拾両と東西萩間村原に三〇〇haの開墾が許可され、明治四年六月金谷方人足百人を率いて入植し、牧之原大茶園の基礎となった。
 その後、向坂弥平次(焼津)と大井川木橋の架橋に専念し、明治十六年四月、全長七二〇間(一三〇〇m)幅二間(三・六m)の木橋を開通させた。
 明治二十二年二月、享年四十八歳没し、丸尾原霊園に永眠する。 」


何やら碑もあります。
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島田市公式ホームページより

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東関紀行日かずふる歌碑

この碑は、金谷宿で大井川を渡るための川会所や番宿等が連なり、旅人で賑わった場所に建立されている。

水神公園の入り口には、金谷宿の復元図と川越之図が掲示されている。

「日かずふる旅のあはれは大井川わたらぬ水も深き色かな」

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『東関紀行』 wikipediaより

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『東関紀行』(とうかんきこう)は、仁治3年(1242年)成立と考えられる紀行文。中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『十六夜日記』)のうちの一つ。作者は未詳。鴨長明源光行、光行の子の源親行らを作者とする説があったが、おのおのの経歴と齟齬をきたすことから近年では否定されており、作者未詳とすることが一般的となっている。仁治3年(1242年)の、京都東山から鎌倉に赴くまでの道中の体験や感想を主として構成されている。和漢混淆文で、風景描写などが紀行文の優れた型といわれる。『平家物語』や松尾芭蕉にも影響を与えた。

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【金谷宿】

こちらは広重の金谷宿。
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10:46 八軒屋橋
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九番宿跡
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10:50 旧加藤家
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案内板
「 ここに旧家 加藤家がありました

ここに平成十六年まで江戸時代に建てられた加藤家が残っていました。
地元ではしとみ戸などを含め昔の姿の復元をめざしています。

金谷・川越し・街道の会 」


10:51 秋葉神社
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10:52 踏切
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10年前、ここを通ったとき、ちょうど踏切が閉まったのでSLを期待したのですが、SLではありませんでした。今日もSLは見られませんでした。

10:54 往還橋
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10:54 佐塚屋本陣跡
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案内板
「 佐塚屋本陣(本町・佐塚佐治右衛門)

 寛永十二年(一六三五)参勤交代 制度とともに、各宿に本陣が開設されましたが、その当初より、佐塚家は佐次右衛門の名を継いで金谷宿 本陣を務めました。
 建坪二六三坪、門構え、玄関付で、門の屋根には対の鯱が付いていたので「鯱の御門」と呼ばれていました。
 表の間口は十三間、奥行は三五間半で、現在の佐塚家と東隣の住宅の敷地に当たります。
 慶応四年(九月八日明治改元、一八六八年)十月五日、明治天皇 御東幸のおり、ここで天皇がお昼休みをとられました。しかし、御食事の支度には本陣の家族は一切手を出さず、婦女子も遠ざけられ、天皇茶の湯も、中町の塚本市右衛門家の井戸水が使われました。
 なお当時の「御小休」、「行在所」の関札(宿札)と、神器(八咫鏡)が安置された「内侍所」(山田屋本陣)の関札が、佐塚家に大切に保管されています。
 明治三年(一八七〇)、本陣は廃止され、普通の旅人や役人の宿泊所(旅籠)となりました。

島田宿 金谷宿 史跡保存会
島田市教育委員会

10:50 清水川のミニ鯉のぼり
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川を渡った時に、たくさんの小さな鯉のぼりが川を渡して飾ってあったのが、小さいながらになかなか壮観。

11:05 柏屋本陣跡
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案内板
「 柏屋本陣(一番本陣)跡

 柏屋は代々河村八郎左衛門を名乗り「金谷六人衆」と呼ばれた名家の一つです。代々本陣と名主を務めていました。先祖の河村弥七郎 が徳川家康 に忠節を尽くしたことで信州に知行地を与えられ、金谷宿・島田宿にも屋敷を与えられています(河村家由緒書」)。
 
江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋は脇本陣でした。寛政三年(一七九一)の「竹下屋火事」と呼ばれた大火によって本陣二軒・脇本陣一軒・旅籠屋五ニ軒の全ての宿泊施設が焼失してしまいました。
 天保一四年(一八四三)の幕府記録『東海道宿村大概帳』には、柏屋本陣は「凡建坪弐百六拾四坪 門構・玄関附」とあります。
 なお、表間口は一九間五尺、奥行三五間半(表は街道に面し、奥は尺川まで)あり、尾張徳川家紀伊徳川家の定宿となっていました。
 嘉永七年(一八五四)の「東海大地震」で壊滅し、本陣を廃業。その後は旅籠屋を営みました。
*本陣=宿場で大名や幕府役人・公家などが使用した宿泊施設。

平成二十八年二月
島田市教育委員会
島田宿・金谷宿史跡保存会 」

11:06 脇本陣
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案内板
脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡

 脇本陣 とは、参勤交代の大名や、勅使(天皇の使い)、公家(朝廷に直接仕える人)などが休泊する本陣の予備的な宿泊所です。普段は上級武士の休泊所となっていましたが、本陣 が重複したときなど、格式の低いものが格式の高いものに本陣を譲り、脇本陣に移りました。 
 元禄~正徳(一六八八~一七一五)ころの屋並図によると本陣は柏屋・佐塚屋の二軒で山田屋が脇本陣となっています。
 寛政三(一七九一)年の大火(竹下屋火事)で本陣・脇本陣を含む金谷宿のほとんどが焼失してしまいました。それから十年後の享和ニ(一八〇ニ)年の記録では、幕府からの拝借金で、玄関・門構などは仮設ながら三つの本陣が復興しています。しかし「脇本陣なし」となっています。
 天保十四年~安政六(一八四三~一八五九)年の「東海道宿村大概帳」には三本陣とは別に脇本陣が建坪一〇五坪(三四六,五㎡)玄関付(門構えなし)と記録されています。
 これ以後の金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衛門家が勤めました。金原三郎右衛門は享保十九(一七三八)年金谷宿の年寄(門屋職の補佐役)を勤めました。また、文政年間(一八一八~一八三〇)から明治三(一八七〇)年の大井川川越し関係の記録の中では、代々川庄屋(川会所の長)の役職を勤めていました。

島田市教育委員会
島田宿 金谷宿 史跡保存会 」

地図の絵看板
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11:12 金谷一里塚跡
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案内板
「 一里塚跡
金谷町新町

延喜三年(一七四六)の東海道巡覧記によれば
『金谷一里塚榎木』
とある。

里程 江戸へ五十三里
島田へ一里
日坂へ一里廿四町

金谷宿 」

この付近、いろいろな道標があります。
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旧東海道金谷駅前には行かず、この線路下を潜ります。
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ここにも道標が。
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10年前に来たときは、ちょっと寄り道して長光寺の芭蕉句碑を見に行きました。

10年前のブログより

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2008.11.05.

【道のべの木槿

ここでちょっと寄り道。長光寺の芭蕉句碑を見に行きました。
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「道のべの木槿は馬に喰はれけり」

野ざらし紀行」の句です。学生時代、旅の文学というゼミをとり、最初にこの「野ざらし」をやったので懐かしく、だからこそ、わざわざ寄り道して見に行きました。

その先、常夜灯がありましたが、まさに松茸でした。
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11:16 不動橋
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11:16 金谷大橋(西入口土橋)跡
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案内板
「 金谷大橋(西入口土橋)跡

現在の不動橋は、江戸時代には「西入口土橋」(金谷大橋)と呼ばれ、金谷宿の西入口となっていました。規模は長さ6間(約10m)横幅2間半(約4.5m)橋桁は三本立四組の土橋でした。土橋とは橋桁の上に丸太を組み、上に小枝を敷き、さらに表面に土を搗き固めて造られた橋をいいました。「御普請所」となっていて約3年目毎に代官所の負担で修理や掛け替えが行われました。金谷坂を下ってきた大名行列は橋の北側にあった休み茶屋(たばこ屋善五郎)で休息し、身なりや隊列を整えてから、宿場に整然と入りました。またここから上りは金谷坂の登り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して上り下りするという東海道の難所の一つでした。大橋の東側袂には「どじょう屋」という一膳飯屋があり、そこが「駕籠仕立て所」となっていて、坂を上下する公認の駕籠かき達の詰め所になっていました。   

島田宿 金谷宿 史跡保存会 
島田市教育委員会

11:18 道祖神
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10年前にも写真に撮りましたが、道祖神。松茸にしか見えない。

これを見ると、金谷の石畳はもうすぐです。


2度目の東海道10日目の4(金谷石畳と諏訪原城跡)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/22/083519