2度目の東海道11日目の4
5月2日(木)の4
【 賜硯堂成瀬大域出生の地】
10:25 賜硯堂成瀬大域出生の地
案内板
「 賜硯堂成瀬大域出生の地碑
書家・成瀬大域(成瀬温)は文政10年(1827)古宮のこの地で生まれました。42才の時上京、安井息軒の門に入って書を修めました。 宮内庁に奉職していた明治12年、(1879)王義之の聖教序を臨書するとともに諸葛孔明の出師表を楷書と草書に書き、併せて明治天皇に献上しました。 天皇よりお褒めの言葉とともに楠木正成愛用と伝わる古い硯を賜りました。 このことから庵と自らを 「賜硯堂」 と称しました。明治35年(1902)没。76歳でした。 なお、川坂屋襖に大域の書、法讃寺境内には大域が筆を執られた暁心翁之碑があります。 また、この古硯は平成14年(2002)遺族の方より、十体の書が書かれた面扇とともに掛川市二の丸美術館に寄贈されました。 」
【事任(ことのまま)八幡宮】
10:31 事任八幡宮
10年前のブログ
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国道に出て、歩道橋で反対側に渡ると事任(ことのまま)八幡宮。かなり立派な神社で、巨大なクスノキと大杉がありました。
坂上田村麻呂が興したと伝えられ、願いが「ことのままにかなう」と評判がたって、賑わったそうです。
本殿前に記帳ノートがあったので、旅の記念に書いたら、何を願ったかも書く欄があり…
前のみんなの記入を見たら、大願成就、最善最良、家内安全、世界平和、中には以前願ったことがかなったらしく、ありがとうございました、と書いている人もいました。
わたしは…やはり前に書いている人がいたので、旅の安全、と書きました。
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LINEトラベルjp.旅行ガイドより
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日本で唯一、主祭神が"言の葉で事をとりもつ働きをする神様"の神社をご存知ですか? それは静岡県掛川市の旧東海道沿いに鎮座している「事任(ことのまま)八幡宮」。
言霊の神様の后神・己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)を古来よりお祀りしています。
創建年代は不明ですが190年頃には鎮座し、平安時代初期に現在地へ遷宮したようです。「事(言)のままに願いが叶う」と言われ、平安時代に書かれた『枕草子』にも「ことのまま明神」として登場。『方丈記』の著者・鴨長明も和歌にその名を詠んでいます。
境内には楠やイチョウなどの大木が。本殿東側に聳えているのは、ご神木の大杉。40メートル近く、しゅっと伸びています。天と通じて参拝者の願いを届けてくれそうですね。
駐車場脇の鳥居をくぐり拝殿へと向かう途中には楠の巨木。この大楠の幹には大きなコブがあります。それはあたかも耳のよう。この耳から神様が参拝者の願いを聞いていると言われています。裏側に回ると大楠に近づくことができるので足を運んでみて!
大木が多く清々しい空気が漂う境内には根元が繋がっている夫婦杉もありましたが、残念なことに2018年9月末の台風24号による暴風雨被害に遭い、根っこから倒れてしまいました。
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夫婦杉は、根っこの部分だけ注連縄を張って展示されています。(鎌倉の鶴岡八幡宮のおおいちょうみたい)
私は今回も、旅の安全を願いました。
道端で見かけるお地蔵さんにも、可能な限り手を合わせて、旅の安全をお願いしています。これは、信仰というよりも、この村に立ち寄らせていただきました、という挨拶です。
【塩井神社】
10:56 塩井神社
鳥居をくぐると、
あれ!
社殿へ渡る橋がない!
10年前に撮った写真では、仮橋がかかっていましたが、心許ないので渡りませんでした。
川が増水すると、橋が外れてしまうんですね。
今回も、足元から右の方の川を見てみたら、外れた橋の板が見えました。
カワサキ機工株式会社 お茶街道サイトより
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塩井神社]掛川市潮井河原
国道一号線八坂橋の歩道橋下に塩井神社があります。鳥居をくぐると逆川が流れていて、川を渡る情緒ある参道ですが常設の橋はなく、臨時に板橋を架けて渡るようになっています。
このあたりは潮井河原という地名で「雄鯨山雌鯨山」の伝説が残されています。その伝説によれば、八幡宮の神が日坂村の人々が清めをするために塩水が湧き出る場所をつくったというのがこの塩井神社にあたるそうです。
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【祭りの人形と、柿園嵐牛俳諧資料館】
国道1号線から、塩井神社の辺りから、左へ反れて旧道に入ります。
11:02 一般のお宅だと思うのですが、道路に面したお部屋に大きな着物を着た人形、一人は白塗り美少年、もう一人は赤天狗の人形が見えたので、祭の人形だと思い、写真を撮っていいか声をかけたら、写真を撮りやすいようにわざわざ角度を変えてくださいました。
そのすぐ近くに、普段は扉を閉めているであろう、祭の山車(屋台)の倉庫の扉が開いていて、山車(屋台)が見えていたので、きっと今日明日が祭で、山車を引いて(押す?)山車にこの人形を乗せるのではないかなあ。
11:05 柿園嵐牛俳諧資料館
嵐牛俳諧資料館HPより
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嵐牛俳諧資料館
鶴田卓池に入門し浜松から静岡まで三〇〇余人の門人を養成しました
嵐牛 伝 昭和60年刊行 柿園 嵐牛翁 より
嵐牛は 通称 伊藤清佐衛門豊蔭といい、寛政10年佐野郡汐井河原(現掛川市八坂)に生まれた。家は農業で鍛冶を兼ねていた。幼い頃から家業に励み俳諧を好み、三河 岡崎の青々卓池の門に入門した。33才の時、掛川市伊達方の石川依平に和歌国学を学び、さらに博覧多聞諸学を深く学んだので、語法仮名遣いの正確さは当時の俳人の遠くに及ばない処だった。毎日家業の鍛冶に専念しながら俳句を勉強し、門人に教え財を成した。屋敷内の柿の落ち葉を拾い集め、それに句を書いたという。嵐牛は、天保半ば頃から俳句を門人に教え、入門者は東は金谷宿から西は磐田郡二俣にまで及び、入門者は多かった。依頼による句会への出席は100回以上に及び、直接指導による門人は300人以上に達すると推察される。嵐牛に教えを請う人が常に門に満ちていたという。
安政4年、柿園に集まった人々の俳句を添削せずにまとめて「そのまま集」と名づけて刊行した。5編迄は嵐牛門人の句が記載され、第6編は門人の他に他流の俳人も含む友人、孫弟子等の句が記録されている。嵐牛は晩年を長子洋々に譲り、屋敷内に別室を設けて移り柿 園と号した。晩年、白童子と号し柿園は長子洋々が継ぎ、白童子は門人松嶋十湖に譲った。明治9年5月28日78歳にて歿す。法名を柿園嵐牛居士という。
以上は 玄孫 伊藤鎌次郎 とその妻 伊藤ほみ による
当館の特徴
全国的にも他に類を見ない俳諧文献を収蔵しています
主たる収蔵品は俳諧・和歌・国学の文献・資料等です
江戸時代の蔵を改修し収蔵品を展示しています
大正時代の木造住宅・小堀遠州風庭園も公開しています
入 館
※入館に際しましては事前予約が必要です
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入館ご希望の方は、嵐牛俳諧資料館、と検索していただくと、HPを見ることが出来ますので、そちらに連絡先が書いてあります。
11:07 福天権現本道道標
【伊達方一里塚跡】
11:07 伊達方一里塚跡
伊達村の一里塚跡。日本橋から57里目。
11:08 大頭龍神社
11:11 歌人石川依平翁出生地碑
傍らに秋葉常夜燈もあります。
11:15 諏訪神社
11:18 六地蔵
今回の東海道歩き、ほとんど鯉のぼりを見なかったので、見つけると写真に撮りました。
最近は男の子がいても鯉のぼりを立てないのかな。
それとも、山梨県の甲府では、武士の町なのでこいのぼりではなく武者幟を立てるので、掛川城のお膝元ということで、習慣的に鯉のぼりを立てないのかな。
昔ほど、季節の行事をあまりやらない、お金をかけないご時世なのかな。
11:42 ファミマでランチ
国道1号線の千羽交差点のファミマで、写真2のサンドイッチとノンシュガーカフェラテを買い、イートインスペースはなかったので、外で食べました。
本村交差点で、国道1号線から左に別れて旧道へ。
12:03 馬頭観音
12:09 服を着た小さな地蔵
【「告」の看板】
案内板
「 告
この道しるべは大頭龍大権現 と福天大権現 の参道標である
昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用されていた
元の位置は約十米程東よりであり川崎街道の起点となっている 」
12:17 秋葉常夜燈
【馬喰橋と葛川一里塚跡】
12:21 馬喰橋
馬の顔の橋の柱がかわいい!
馬喰村という地名だったそうですが、馬喰が住んでいたこたから馬喰村と呼ばれたそうです。
馬喰とは。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
「 馬喰(ばくろう)
伯楽(はくらく)、博労(ばくろう)ともいった。伯楽は古代中国では馬相(ばそう)をみる者をさしていたが、日本では馬薬師(うまくすし)(馬医)もこうよんだ。13世紀には馬医のほか牛の牛医(くすし)も現れた。16世紀に入ると、馬喰とは馬・牛の売買・仲介をする商人をいうこととなった。 」
馬喰橋で逆川(葛川)を渡ると、
12:21 葛川の一里塚跡
日本橋から58里目。
12:22 秋葉常夜燈
この常夜燈、変わっていますね。
2度目の東海道11日目の5(掛川宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/23/175757