紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道6日目の2(原〜間の宿柏原〜春耕道しるべ)

2度目の東海道五十三次6日目の2

2019年4月4日(木)の2


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【花びら舞う原宿の朝】

9:48 高札場跡
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9:49 問屋場
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9:55 原駅入り口
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原は富士山がきれいに見える、憧れの地です。

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広重の原宿は朝靄ですが、私の原宿は、花びらとともに歩く朝です。
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9:56 高嶋酒造
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10:03 富士山が見えるセブンイレブンで、トイレ休憩&ティータイム。
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【改名の話】

10:21 原の一本松一里塚跡
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そこから25分ほど歩くと…
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【その改称はありでしょう】

また暫く行くと、右側に愛鷹浅間神社があり、神社前に改称記念碑があります。
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ここら一帯の開拓、開墾に尽力した鈴木助兵衛にちなんで、助兵衛新田という地名だったのを、明治41年に桃里と改名したことに由来するそうです。


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【桜地蔵と植田踏切】

10:51 桜地蔵尊入り口
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通り越したのですが、遠くに、たぶんあの桜の固まった辺りが桜地蔵尊だろうと勝手に思っています。

10:56 植田踏切を渡る。
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振り返ると、富士山がきれいでした。
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【六王子神社

11:02 富士市に入る。
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11:13 六王子神社
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案内板

「 六王子神社

祭神  六王子神

伝説「三股の伝説」

 昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでいました。この渕には龍 が住んでいて、毎年お祭りをし、少女をいけにえとして捧げるしきたりがありました。
 今から四百年程前、関東の巫女七人が京都へ向かう途中、このいけにえのクジを引き、一番若い「おあじ」が引き当ててしまいました。仲間の六人は国元へ引き返す途中、柏原あたりにきたとき、悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身をなげてしまいました。村人が六人のなきがらを一カ所に弔ったのがこの六王子神社だといわれています。
 おあじは鈴川の阿字神社に祀られています。
平成十二年一月
富士市教育委員会


11:13 東田子の浦駅入り口
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11:14 休憩したくて、ちょっと裏手へ行ってみたら、延命地蔵尊があり、そこのベンチでチョコクランチを食べて休憩。
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【間の宿・柏原】


沼津から吉原あたりまで、ずっと富士山がきれいでした。
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11:23 間の宿 柏原本陣跡
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間の宿 wikipediaより

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宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、係る地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、その様にして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間宿」である。ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村若しくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていた。それ故に旅籠(はたご)は存在しないし、駕籠や人足、伝馬を扱う問屋場もなかったがあくまでも名目上・表向きの事であった。正規の宿場には公用の旅行者や貨物を無料若しくは格安の公定価格で取り扱う義務がありそのための経費を宿場が負担していた。その経費ねん出のため幕府は旅籠の営業を宿場にのみ限定し遊女である飯盛女も認めていた。しかし間の宿では公役を負担していなので幕府は宿場保護のため間の宿での旅籠及び遊女を禁止していた。一般の宿場同様に米屋や酒屋などの各種商店が櫛比しており、周辺村落の住民も商店街として利用していた。

間宿として異例であるが、東海道の金谷宿 - 日坂宿間にある菊川宿の様に、徳川幕府による宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間宿となった場合がある。この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川の川留めなど諸事情により旅人の宿泊施設が足りなくなった時等は、宿泊が公認された。 尚、間宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、所謂“峠の茶屋”等がそれである。 間の宿のなかには立場が発展したものもある。

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【立圓寺と富士山】

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【見よう歩こう東海道

富士市に入ると、「見よう歩こう東海道」と書かれた説明板や道標が各所に設けられ、分かりやすいし道にも迷わずにすみました。

日本橋からここまで来た内、富士市内が一番案内板が分かりやすくて安心でした。

東田子の浦駅を過ぎて暫く行くと、右側に立圓寺。

境内に望嶽碑と、昭和54年10月19日に立圓寺の南方の沖で遭難したインドネシア船籍ゲラテック号の記念碑がありました。ゲラテック号の錨がモニュメントに使われていました。

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こちらの写真は10年前には撮ったグラテック号の錨のモニュメント。
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10年前は富士山は見えませんでしたが、今日は綺麗に見えました。
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【増田平四郎とスイホシ】

11:31 昭和放水路(広沼橋)
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11:33 増田平四郎の像と一里塚跡
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暫く歩くと、昭和放水路という、川のようなものがあり、増田平四郎の像がありました。この辺りは、度々水害に遭うため、増田平四郎が大工事を行い、スイホシと呼ばれる排水路を作ったのですが、たまたまその年に高波があり、スイホシは跡形もなく消えてしまったそうです。
その後、増田の遺志を継ぎ、同じ場所に放水路が作られました。この同じ場所に江戸から三十三里の一里塚があったそうです。

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【春耕道しるべ第一号】

11:40 春耕道しるべ第一号
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仁藤春耕の道しるべ石第1号石碑が静岡県富士市柏原田中町の旧国道1号線沿いにありました。しかし、表面に書かれている文字が擦り減り判読できません。

側面には 吉永村役場へ三十一町、須津村役場へ一里 、そして、手指しの絵が彫られています。

仁藤春耕の子孫は、静岡県富士市にある仁藤石材店を営み、
“道しるべの春耕さん”として
富士の吉永地区で古くから親しまれているそうです。

『春耕道しるべ第一号石碑』。

ここから北に 富士山と愛鷹山の間を抜けていく道があります。

1906(明治39)年、吉永村(現在の富士市比奈あたり)の仁藤春耕が、十里木(裾野市)、印野、須走(ともに御殿場市)を通る山中湖までの道に、5年の歳月をかけ、120基の道しるべを建てました。

当時、富士市から山梨県甲府へ行こうとして道に迷い、命を落とした人が多かったことから、仁藤春耕は私財をなげうって道しるべを作りました。

戦争に行かなかったことを心苦しく思っていた春耕は、これこそ自分が出来る人助けとして天命を受けた、と思い、この事業を黙々と(周囲からは気がふれた、など陰口を言われていたそうです)成し遂げました。

春耕が建てた120基の内、多くは工事の移動や、捨てられたり埋められたりして行方不明で、54基が確認されているそうです。

表面の文字、私が読んだところでは、

「富士〇〇
叢雲天〇〇
愛鷹の
山の
木かげに
〇まぞ
〇〇〇 」

こんな感じです。


11:42 米之宮神社
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11:45 愛鷹神社
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12:04 常夜燈
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2度目の東海道6日目の3(吉原宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/11/04/081626