2度目の東海道五十三次6日目の3
2019年4月4日(木)の3
【毘沙門天】
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【 毘沙門天】
毘沙門天は妙法寺という寺で、吉原駅の近くにあります。(写真1)元吉原の地域です。吉原宿は、初め、この元吉原にあったそうですが、高波などの影響で2回も場所を移動し、元吉原の次は中吉原、そして、岳南鉄道の吉原本町駅近くの新吉原へと移動したそうです。
【ダルマ市の思い出】
毘沙門天は旧正月にダルマ市をしますが、高崎と並ぶ二大ダルマ市です。
静岡に住んでいた頃、小さかった長男を連れて来たことがあります。境内にも階段にまでビッシリとダルマの露天が並び、浅草の羽子板市みたいに、値切ったり、商談成立すると手締めをしたり。
私は大人の手のひらに乗るような小さなダルマしか買えませんでしたが、お店の人が、長男に大きなダルマを持たせて記念写真を撮らせてくれました。
そのとき、階段から振り返ると富士山がとてもきれいだったのが印象強く…
(以下略)
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木が伸びてしまったため、富士山が見えづらくなったみたいです。
【問題の分岐】
12:21 鈴川踏切
富士市のシンボル?赤と白の煙突も青空に映えています。
吉原駅入り口を過ぎ、
12:28 馬頭観音
12:40 ここから、右へ入っていく分岐
10年前はこの分岐に気づかず、かなり先まで間違えたまま行ってしまって、戻ってくるのが大変でした。ただし、その間違いのおかげで、ランチにありつけたのですが。
10年前は、後から来る皆さんが道を間違えないように、分岐の左かどの石屋さんの写真を撮ったのですが、今回来てみたら、石屋さんがなくなっていました。
目印は右の弘容電機です。
【どこから左富士?】
東海道を江戸から京都まで西に向かって歩いていると、常に富士山は右側に見えているのですが、茅ヶ崎の鳥井戸と吉原のここら辺の二ヶ所だけ、珍しく左側に富士山が見えます。
ここに来るのは2回目なので、もうすぐ左富士だということは知ってるいるのですが、いったいいつ、左富士になるんだろう、と、富士山ウォッチングしながら歩きました。
写真1枚目。富士山は右側。
写真2枚目。大分正面になってきました。
写真3枚目。やや左富士。
【左富士神社】
12:46 左富士神社
ここで休憩。チョコクランチもこれがラスト。
神社の境内からは左富士が見えないので、神社の裏手に、左富士が見えるかどうか行ってみました。
建物が建ってしまって見づらくはなっていますが、かろうじて見えました。
境内には依田橋村一里塚跡の碑もあり、こちらは、一里塚の模型です。
一里塚の大きさは、
「 一里塚の大きさは5間(約9 m)四方、高さ1丈(約1.7 m)に土を盛り上げてつくられ、一里塚の上には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。
一里塚 - Wikipedia 」
【左富士の碑】
12:55 左富士の碑
今回は天気がよすぎて碑の表面が光ってしまってよくみえないため、この写真は10年前に撮った写真です。
「左富士」の看板もありました。
【 富士川の戦いは和田川だった】
13:03 平家越えの碑。
和田川と浮島ヶ原の間に陣取った平家ですが、水鳥の羽ばたきの音に、源氏の奇襲と思い込み、戦わずして平家が退却したという有名な富士川の戦いは、実は富士川ではなく、和田川の湿地帯での出来事だったそうです。
平家越え橋のたもとは交差点になっていて、信号機の下に碑があります。
平家越えの碑のところで道は大きくカーブし、和田川を渡ると新吉原。
【新吉原はシャッター街?】
吉原宿 wikipediaより
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吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、1639年(寛永16年)の高潮により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原)。しかし1680年(延宝8年)8月6日の高潮[1]により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に移転した。このため原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、"左富士"と呼ばれる景勝地となった。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は1本の松の木が残るのみである。
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【吉原本町(新吉原)はシャッター街】
やがて岳南鉄道の吉原本町駅を越え、富士市で一番繁華な町並みですが、シャッターが下りている店が多く、町の規模は大きいのに、寂れた町の印象でした。
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【吉原小宿】
13:19 明治天皇御休所
この後、10年前に休憩したまちの駅を探したのですが見当たらず、なくなっちゃったのかな、と思っていたら、後で調べたら今もあるんですが私が探していた看板がこちらで、
現在の外観はこちらなんですね。この写真は、( miteco. みてきてつながる しぞ~かネット. )よりお借りしました。
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まちの駅、というところがあり、トイレを借りたら、木の香りがする素敵なトイレでした。
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今のまちの駅、吉原小宿も機能的には同じようなところもありますが、富士市のグルメ、富士つけナポリタンを宣伝するという機能が増えているんです。
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吉原商店街の真ん中“まちのお休み処”
まちのご案内・富士ひのきトイレ・子育てほっとステーション(おむつ換えベッド・授乳スペース)・AED・給茶機も設置しています。
富士つけナポリタン大志館として吉原発ご当地グルメ「つけナポリタン」のご案内もしています。
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【鯛屋旅館】
鯛屋旅館は健在でした。
ただ、右隣の、鯛屋旅館が経営する蕎麦屋があったかどうか、なかった気がするんですが。
鯛屋旅館(鯛屋旅館HPより)
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創業は天和2年(1,682年)より330年以上もの間、
当時の場所で営業しております。
また世紀の大親分の清水次郎長、幕末の偉人の一人である
山岡鉄舟の常宿としても知られております。
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この、わりとすぐ先で、こちらの写真の道標にしたがって左折します。
13:26 妙祥寺髭題目
13:32 西木戸跡
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【複雑なルートも案内板で楽々】
その先の道標に従って左に曲がり、もう少し先をまた道案内板に従って右折。
暫く行くと大きな道に合流し、左に曲がって歩道を行き、大きな交差点で右へ。
曲がってすぐ、左に入る静かな道へ進みます。今日は大通りへ出ても、また静かな道に入ることが多く、静かな道は歩き旅の醍醐味ですね。
暫く行くと、大きな五叉路に出て、ここを右に行きます。
潤井川の手前で右に曲がります。例の「見よう歩こう富士市の東海道」の案内が役に立ちます。
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【旧東海道跡の碑】
13:35 旧東海道跡の碑
案内板
「 旧東海道跡の碑/富士市役所通り
昭和四一年、富士 吉原 鷹岡の二市一町が合併して現富士市となりこの周辺は、中心市街地として依田原新田区画整理事業により整備されましたが、それに伴い旧東海道がこの地で分断されました。この西隣に東海道跡の碑が置かれ、平成十三年東海道四〇〇年祭に因み今のように改修されました。砂利道に敷かれた細長い石は、ここより南方350メートル青島地先より出土した当時の石橋の石です。この上を大勢の旅人や荷車、参勤交代の大名行列が通ったことでしょう。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんが渡ったかもしれません。すべすべした石の表面を触ってみると賑わった往時が偲ばれます。
平成二十八年三月
吉原地区まちづくり協議会 」
13:44 道祖神
13:51 富安橋
潤井川に架かる「富安橋」を渡りました。
古くは三度橋という橋が架けられていたそうです。江戸時代に江戸と上方を月に3往復する”三度飛脚”を生業とする”三度屋”という問屋があり、青島・高島・蓼原村の3ヶ村の要請で建設費用に42両もの大金を出したことから、三度橋と名付けられたとそうです。
【憧れの袂の塞神】
13:57 袂の塞神
『袂の塞神(たもとのさいのかみ)』。
大きな顔の石仏で笏を持って頭巾を被って笏(しゃく)を持っています。
この塞の神のお祭りも道祖神と同じで、1月14日に正月のお飾りなどを燃やすドンドン焼きもやるようです。年号などの刻銘はなく、江戸後期のものと思われるそうです。
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【憧れの袂の塞神】
富安橋から暫く進むと、民家のブロック塀がコの字にへこんでいて、袂の塞神(たもとのさえがみ)と呼ばれる、単体のユニークな道祖神があります。(写真)
本で見た時、これだけは絶対見逃さずに見てみたい、と思ってきました。
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2度目の東海道6日目の4(間の宿本市場〜富士駅へ)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/11/05/103036