紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道5日目の4(三嶋大社〜沼津宿)

4月3日(水)の4


三嶋大社

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15:07 三嶋大社

桜が満開で、露店も出ていて賑やか。
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三嶋大社の満開の桜を堪能。
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写真は、源頼朝の腰掛石。
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1180年(治承4年)、源頼朝が源氏再興を祈って三嶋大社を100日間にわたり日参した際に休息したとされる石で、左の石に源頼朝が、右の石に妻の北条政子が腰を掛けたと伝えられています。

本当は、三嶋大社前の鰻屋で鰻を食べたかったのですが、うな重は6,500円、うな丼は3,800円。高いので諦めました。


【水の都三島の思い出】

10年前の東海道歩きの時、番外編としてこんなことを書いています。

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2009.01.20. 東海道番外編4 水の町、三島

職場の慰安旅行があり、伊豆の大室山と稲取へ行った後、三嶋大社の参詣、御殿場アウトレットショッピングという行程でした。

私は三嶋大社で皆さんとはお別れして、一人旅に出ました。

三島駅へ向かう道で迷ってしまい、川の中の道を通ったり、面白い体験でした。
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三島は水の豊富な町で、水辺には三島の水辺に関する文学碑が並んでいました。
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三島駅から豊橋へ向かいました。

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【三島宿】

15:30 樋口本陣跡
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15:33 源兵衛橋
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源兵衛川は富士山の湧き水で、水の豊かな三島市は水の都。

源兵衛川沿いに遊歩道があります。

源兵衛橋の奥に、三石神社があります。
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三石神社(みついしじんじゃ)は、大中島町氏神です。その昔、神社の近くを流れる源兵衛川の川沿いに三石(みついし)という巨大な石があり、その上に稲荷神社を建立したのが始まりといわれています。神社でありながら境内には鐘楼があり、江戸時代には明け六ツ、暮れ六ツにこの鐘を撞いて三嶋宿の人々に時間を知らせていました。
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15:36 三島広小路駅
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15:45 秋葉神社
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境内のムクノキは樹齢300年
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【千貫樋】

15:47 千貫樋(せんがんどい)
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静岡県HPより

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千貫樋は、清水町と三島市との境に位置し、楽寿園小浜池の湧水を、清水町にかんがい用水として送水するために、境川に架設されている掛樋です。現在の千貫樋は鉄筋コンクリート製ですが、樋が、大正12年(1923年)の関東大震災により崩壊する以前は、木造で、全長45.0m、深さ0.45m、幅1.8m、高さ4.5mでした。
なお、再建された現在の樋は、全長42.7m、深さ0.45m、幅1.9m、高さ4.2mで、従来のものと、ほぼ同規模です。この樋を架設した経緯は諸説ありますが、天文24年(1555年)に、今川、武田、北条の三氏が和睦した際に、北条氏康から今川氏真に婿への引出物として楽寿園小浜池から長堤を築き、その水を駿河の今川領に送水したというのが一般的です。
また、名前の由来については、この樋が銭千貫に値するからという説、樋が高千貫の土地を潤すからという説、樋を造るのに銭千貫が掛ったという説があります。

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15:50 常夜燈
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説明板
「 建立は弘化3年(1846)で両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれています。
いずれも日を鎮める神様せす。名主はじめ村人が防災の願いをこめて造ったものです。
防災、村内安全とともに東海道を行きかう旅人の安全も見守っていたことでしょう。」

写真は、夢舞台 東海道「新宿」道標
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【宝池寺・玉井寺一里塚跡】

15:58 宝池寺一里塚
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その向かい側に玉井寺一里塚
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江戸から29里目の一里塚。慶長9年(1604)江戸幕府は、主要な街道沿いに江戸日本橋を起点として1里ごとの道程標識として一里塚を作りました。五間四方の土地に半球状に十尺の土盛をし、頂上に榎などの木を植えたものが標準形とされています。

町内には2つあり、東海道を挟み伏見玉井寺と宝池寺の前に一対をなしています。

宝池寺側のものは昭和60年に作った当時と同じ寸法で復元されたものですが、玉井寺側の一里塚は樹木におおわれているもので、作られた当初のものといわれています。これらは、江戸から29里目(113.88km)にあたり、また、宝池寺境内には立場と呼ばれた茶屋があり道ゆく旅人に湯茶のサービスをしていたといわれています。

玉井寺一里塚前で縁石に腰掛けて、チョコクランチで休憩。


【智方神社】


16:22 智方神社
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駿東郡清水町長沢の智方神社。ご祭神は後醍醐天皇の皇子護良親王

この神社には護良親王の伝説が伝わります。

護良親王皇位略奪と足利尊氏暗殺計画の罪で鎌倉の足利直義に預けられ幽閉されます。ここに鎌倉では中先代の乱が起きました。

中先代の乱とは、鎌倉幕府の残党北条(平)時行が鎌倉奪還を謀ります。
足利直義は後憂を考え、淵辺義博に護良親王を殺させ、鎌倉を脱出しました。

また、護良親王の首はその後、側女の南の方(藤原保藤の娘)が持ち出したといいます。

南の方は親王の首を京都に届けようと追手に追われながらここ、黄瀬川の川岸まで逃げてきました。

しかし、黄瀬川は嵐のため増水して渡れません。

もはやこれまでと思った南の方は黄瀬川の川岸に親王の首を埋め、その目印に楠を植えたそうです。

その場所がここ智方神社だと言われています。


【潮音寺】

16:29 潮音寺
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潮音寺境内には亀鶴姫の碑がある。
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亀鶴姫は以前亀鶴観音寺の本尊として曽我兄弟の仇討ちに登場する黄瀬川宿の遊女で、同寺が廃寺になった明治12年にこの潮音寺に移された。

鶴亀は、曽我兄弟の仇、工藤祐経の愛人でした。


【平作地蔵尊〜日本三大仇討ちのひとつ】

16:47 平作(へいさく)地蔵尊
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沼津市HPより

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歌舞伎や人形浄瑠璃の「伊賀越道中双六沼津の段」の中に、平作・呉服屋十兵衛・お米の織りなす悲劇の場面がある。「伊賀越」は、歌舞伎や人形浄瑠璃における三大仇討ちとして「忠臣蔵」「曾我」とともに、広く知られているものの一つである。
この物語は、寛永11年(1634年)備前岡山藩池田の家中、渡辺数馬が、姉婿である剣客荒木又右衛門の助けをかりて、弟の仇河合又五郎伊賀上野城下鍵屋の辻で討った史実を脚色したものである。
複雑な事情と人間関係が織りなすこの物語は、義理と人情の板挟みの物語として当時の人々に受け入れられ、平作じいさんの胸中は、後々の人々の心をうち、語り伝えられてきた。この地蔵尊は子育て延命地蔵であるが、「伊賀越道中双六」の名場面として知られる沼津の段にちなみ、「平作地蔵」とも言われている。

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同じ敷地名地にあった石碑石仏など。
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【沼津日枝の一里塚跡と玉砥石】

16:50 沼津日枝の一里塚跡
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沼津宿内を避けて、伏見一里塚(玉井寺・宝地寺一里塚)と3.2kmしか離れていない。


16:50 玉砥石
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玉砥石は、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられています。
柱状の二つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられています。

日枝の一里塚跡と同じ公園内にあります。


【三園橋】

17:00 三園橋交差点
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今日の東海道に歩きはここまで。

沼津駅に向かいます。


【沼津 うおがし寿司】

17:10 沼津駅
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17:35 魚がし鮨の近海鮨とかに味噌
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これを食べたら帰りたくなくなって、さっき見かけた東横INNが取れるかどうか検索したら予約がとれたので、今夜は沼津に泊まります。

本日の歩数 37,266歩(27km)


2度目の東海道6日目の1【沼津宿】に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/11/03/073521



2度目の東海道五十三次歩き目次1へ
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/10/101738

2度目の東海道五十三次歩き 目次2へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次3へ
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2度目の東海道五十三次歩き 目次4へ
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東海道五十三次の絵手紙前半へ
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東海道五十三次の絵手紙後半へ
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