紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

箕田源氏ゆかりの地

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案内板
「 箕田源氏ゆかりの地

 平安時代も9世期後半頃になると地方の政治が乱れ始め、武蔵国では群盗がはびこり、治安が悪化してきました。
西暦九一九年、前(さき)の武蔵権介(ごんのすけ)の任にあった源仕(任)は、官物を奪って官舎を焼きはらい、国府(国ごとに置かれた役所)を襲う事件を起こしました。
源仕は昇(のぼる 嵯峨天皇の孫)の子で、任期終了後も帰京せずに、箕田に土着して豪族となり、その子充(みつる 宛)は 箕田源氏の祖といわれています。著名な説話集『今昔物語集』には、箕田に居をかまえていた源充と、村岡(熊谷市 )に居を構えていた平良文とが、合戦におよんだことが述べられています。源頼光の四天王として知られている渡辺綱は充の子にあたります。
このほかにも、仕が勧請したと伝えられる八幡社、綱ゆかりの寺院など、箕田には源氏にちなむ伝承が数多く残されています。
やがて江戸時代になると、五街道の一つである中山道が、現在の鴻巣市域をほぼ南北に通り、中山道東海道と共に江戸と京都・大阪とを結ぶ重要な幹線路であったから、整備も行き届いていました。中山道を往来する主な通行は、参勤交代のために隊列を組んだ大名行列や公用の武士、荷物を運ぶ人足や馬、神社参詣の旅人などがありました。
朝、 江戸を出発した旅人は、その日の夕方には鴻巣宿に着き、旅籠屋に宿を取って、翌朝、再び中山道を西に向かって旅立ちます。鴻巣宿からほぼ一里ほど行くと、箕田村の追分あたりに着き、ひと休みすることもあります。追分からは、北に向かって、三ツ木・川面を経て、忍(おし 行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、ここを箕田村字追分というようになりました。
 鴻巣宿から、熊谷宿までは、四里六丁四十間(約十六キロメートル)の長い距離があり、途中の箕田、吹上、久下村の三ヶ所には、立場と称される休憩所がありました。立場とは立場茶屋 ともいい、宿場と宿場との間にあって、そこで旅人がワラジを買い替えたり、お茶を飲みダンゴを食べるなど、休息するところです。箕田の追分には立場があったので、旅人の休息はもちろん、近村から神社参詣などで旅立つ者を見送る人々も、ここでしばしの別れを惜しんだのです。
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上の図(『中山道分間延絵図』)は十九世紀初頭、幕府によって作成された中山道絵図のうち、宮前、箕田、中井村あたりの部分図です。道に面する家並みや寺院、中山道から分かれる道などが描かれ、当時の中山道とその沿道のようすを窺い知ることができます。
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左上の図は江戸時代の後期、根本山(群馬県桐生市)に参詣する人びとのために発行された旅行案内の一場面で、箕田の追分が描写されています。そこには中山道と館林道の道しるべ(道標)や冨士屋という立場、さらに追分に造立されている地蔵菩薩などを見ることができます。
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左下の図は、明治元年に合祀された氷川八幡神社を描いたもので、境には渡辺社や箕田源氏の事跡を刻んだ箕田碑なども見えます。 」