案内板
「 氷川八幡社と箕田源氏
氷川八幡社は、明治六年に箕田の鎮守であった八幡社と同じ村内の氷川社を合祀して現在の社名となった。
八幡社は、藤原純友(すみとも)の乱を鎮めた源仕(みなもとのつこう)が京都の石清水八幡宮から分霊を勧請(かんじょう 神社の祭り神を分けて別の場所に祭ること)し、氷川社は、六孫王源経基(または源仕とも)が承平元年(九三ー)に勧請したとそれぞれ伝えられている。
また、八幡田の地名の由来は、源仕の孫である渡辺綱が神田を八幡社の為に奉納したことによる。
箕田地域は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏発祥の地で、源仕、源宛(みなもとのあたる)、渡辺綱の三代はこの地を拠点として歴史に名を残す活躍をしたのである。
嵯峨天皇ー武蔵守 源 信(後左大臣)ー保
┃
┗ー相模守 源 融(後左大臣)ー昇ー
武蔵守 仕ー 箕田源次 宛ー源次別当 綱
源 融ー副ー武蔵守 添
○源 仕… 源仕は、嵯峨天皇の第八皇子河原左大臣源融(みなもとのとおる 嵯峨源氏の祖)の孫で、寛平三年(八九一)に生まれた。長じて武蔵国箕田郷と呼ばれたこの地に居を構えた。
周辺の土地を開墾し、家の子・郎党を養い、次第に力を蓄えていった。智勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平・天慶の乱に功を立てて従五位上武蔵守となった。
天慶五年(九四二)没。享年五二歳。
○源 宛…源宛は、仕の子で弓馬の道にすぐれ、天慶の乱では仕に従って西国に赴き武功を立てたが、天暦七年(九五三)に二一歳の若さで没した。宛の武勇は広く知られており、その様子は『今昔物図集』に平良文(たいらのよしふみ)との一騎打ちが説話として残されている。
○渡辺 綱 … 渡辺綱は、源宛の長子として天暦七年(九五三)に箕田に生まれた。幼くして両親を失ったため、従母である多田満仲の娘に引き取られた。摂津国渡辺庄で育ったことから渡辺姓を名乗った。幼少より勇名を馳せ、長じては源頼光に仕え、世に頼光四天王の第一と称され剛勇で知られた。
後に丹後守に任ぜられた。万寿二年(一〇二五)二月十五日没。享年七三歳。八幡社右手奥にある宝持寺には綱の位牌が残されている。法名を『美源院殿大総英綱大禅定門』という。
また、次のような辞世の句が伝えられている。
世を経ても わけこし草のゆかりあらば
あとをたつねよ むさしののはら
【箕田館跡】 源仕を始めとする源家三代の館は氷川八幡社の北側にあったと伝えられ、現在でも周辺は殿山と呼ばれている。しかし、かつてここに館があったことを偲ばせるものは見当たらない。
文化財を大切にしましょう 」