紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2度目の東海道五十三次歩き13日目の5(白須賀宿)

2度目の東海道13日目の5

5月21日(火)の5


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【Happyおばあちゃんとお守り草鞋】

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この道標の近くで、10年前に素敵な出会いがありました。

10年前のブログ

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白須賀 潮見坂下の「夢舞台 東海道」道標の写真を撮っていたら、「旅の人、旅の人」と呼び止められました。

手に食べかけの林檎を持ったおばあさんが、「いい物あげるから」と手招きしています。

まさかこんなおばあさんが人拐いな訳がないので、付いていってみると…

おばあさんが載った新聞記事(中日新聞地方版「Happy Days」)や、元サッカー日本代表岩本輝雄さんがNHK衛星放送の企画番組で東海道五十三次を歩いた時に岩本さんとおばあちゃんが一緒に撮った写真とか、全国たくさんの人からおばあちゃんへ届いたお礼状(6000通!)を見せてくれました。

おばあちゃんは端切れと縄で作った小さな草鞋一組をくださいました。
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「リュックの見えるところに付けて歩くと、魔除けになるから」と。

宇津ノ谷峠の鬼除け団子を思い出しました。あれは本当に効き目があった!

おばあちゃんは、小林末子さん、93歳(2008年当時)。
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テレビや新聞に何回も出ているから、実名出しても問題ないよね。

おばあちゃんの宝物は、全国から寄せられた6000通のお礼状。これがおばあちゃんの元気の源。

とってもおとなしい飼い犬君は、「ポチたま」の旅犬だいすけ君が来た時など、既に4回もテレビに出た犬です。

小さな草鞋一足をリュックにぶら下げ、おばあちゃんに見送られて、Happyな気分で潮見坂へ。なんだか嬉しくて嬉しくて、きつい坂も楽しく上れました。

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絵手紙は、10年前のブログ用に描いたもの。おばあちゃんと草鞋の写真は10年前に撮った写真です。

この草鞋のお守りは、今もリュックに付けて歩いています。

白須賀宿以降の東海道も、その後歩いた中山道も、今回の2回目の東海道も、この草鞋のお守りと一緒です。

私も、翌年の年賀状に、無事に東海道を完歩し、今は中山道を歩いていることを書いて送りました。

今回、あのおばあちゃんの家はどこかな、おばあちゃんがたとえいらっしゃらなくても、それらしい小林家はないだろうか、と探しながら歩いたのですが、見つけられませんでした。


【潮見坂】

潮見坂下が13:28

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潮見坂説明板が13:38
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潮見坂を上りきったところにある、「おんやど白須賀」という休憩所&資料館着が13:42

林の中の道を何度かカーブしながら上っていくと、潮見坂の看板があり、そこで振り返ると素晴らしい遠州灘の眺望。
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10年前は逆光で海の写真は撮れなかったのですが、今回は撮れました。

案内板
「 潮見坂

潮見坂は、汐見坂、観潮坂とも書き、東海道屈指の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。西国から江戸への道路では、初めて太平洋の大海原や富士山をみることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地でした。
永享四年(一四三二)には、富士遊覧に出かけた室町幕府六代将軍足利義教がこの地で休息をとり、公卿の飛鳥井雅世らとともに歌会を開きました。
江戸時代には、浮世絵師の歌川広重遠州灘を背景にその一帯風景を鮮やかに描いています。

湖西市教育委員会

西から来ると、潮見坂で初めて富士山が見える、というのは、以前に見付宿の地名由来が、西から来ると見付で初めて富士山を見るから、という話と反してしまいますが、見付の地名由来はいくつかあるようですし、天気がよかったけれど、(嵐が去った後のすばらしい晴天なのに)私は今日、富士山を見なかったので、人によっていつ富士山を見たかも変わってくるでしょうから、地名由来は「そういう話もあるよ」「幾つも説はあるんだよ 」ということでいいんじゃないかと思います。


【おんやど白須賀】

13:42 おんやど白須賀
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10年前は年末で「おんやど白須賀」は閉まっていました。

なので今回初めて中に入りました。

私はてっきり、ど真ん中茶屋みたいにお茶を出してくれるか、或いはセルフサービスにしても、お茶が飲めると思っていましたが、そういう施設ではないようです。ベンチで休憩することは出来るし、トイレもあります。

常設展は、写真のような街道を復元した人形パノラマや、鎧兜等がありました。写真を撮っていいか許可をもらって撮りました。
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特別展は、白須賀歌舞伎の様子の写真などでした。地元の人たちによる歌舞伎ですが、なかなか本格的な様子です。

忠臣蔵外伝白須賀の段、というのが心に残りました。

まだ、殿中刃傷事件の前の平和なとき、赤穂から江戸へ戻る途中の浅野内匠頭白須賀宿に泊まり、やはり参勤交代で通りかかった吉良上野介は通過の予定だったのですが、高波で白須賀に泊まることになりました。

白須賀宿の人々は揉め事が起こらないかとひやひやものでしたが、浅野内匠頭吉良上野介は塩作り談義で盛り上がり、楽しい一夜を過ごしました。

しかし、その後、江戸城中での刃傷沙汰が起こり、白須賀の人びとはこぞって涙した、というお話。

なんだか胸が打たれました。


【潮見坂公園跡】

14:00 石碑群
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おんやど白須賀を出てすぐの左側にぎゅぎゅっと詰まって石碑が集まっているので、あちこちにあったものをここに集めたのでしょうか?

この辺りは潮見坂公園跡
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かつての公園跡地には、今は白須賀小学校が建っています。

14:05 展望台より海を望む。
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潮見坂公園跡を出て歩いていたら、一台の車が私の真横で停まりました。

なんと!

さっきの「おんやど白須賀」で、私はベンチに日焼け防止手袋(スマホ対応の優れもの)を忘れてきてしまっていたのを、館長さんが追いかけてきて届けてくださったのです。

ありがとうございました!

14:19 鷲津停車場往還道標
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曲尺手】

14:20 曲尺
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案内板
曲尺手(かねんて)

曲尺手は直角に曲げられた道のことで、宿場の出入口に造られました。敵の侵入を阻む軍事的な役割も持つほか、参勤交代の際、大名行列同士が道中かち合わないようにする役割を持っていました。
江戸時代、格式の違う大名同士がすれ違う時は、格式が低い大名が駕籠から降りてあいさつするしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭(ともがしら)にとっては一番の失態です。そこで、斥候と呼ばれる下見役に曲尺手の先を下見させ、行列がかち合いそうな時は、格式が低い方の一行は休憩を装い、最寄りのお寺に急遽立ち寄りました。

湖西市教育委員会


【大村本陣跡】

14:24 大村本陣跡
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案内板
「 大村本陣跡

本陣とは、江戸時代、公家・大名・幕府役人など身分が高い者が旅の途中、宿泊・休憩した施設です。参勤交代制度の確立に伴って整備されました。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた立派な建物でした。
ここは本陣の大村庄左衛門家跡で、元治元年(一八六四)の記録には、建坪百八十三坪、畳数二百三十一畳、板敷五十一畳とあります。
大村家は、江戸時代を通じて本陣として栄え、その主人は代々庄左衛門を襲名し、白須賀宿の名主のほとんどの期間を
務めた家です。
この本陣は、明治元年(一八六八)の行幸と還幸、翌二年(一八六九)の再幸のとき、明治天皇が休憩された所でもあります。
湖西市教育委員会


【夢舞台 東海道

問屋場
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ところで、問屋場跡の写真をはじめ、静岡県東海道沿いの各所で見かけてお世話になってきたこの 道標。

『夢舞台 東海道

2001年の東海道四百年祭の時に、
静岡県内22宿場への案内として随所に建てられたもの。

で、10年前のブログには、「夢舞台 東海道」と書いていたのに、あれ?「夢街道 東海道」に変わったのかな?と、なんとなく勘違いして、度々「夢街道 東海道」と書いていたと思います。

これはたぶん、静岡県に入ってすぐの三島が、「三島夢街道」という言葉を使っていたので、頭の中で混ぜこぜになってしまったみたいです。

あれ?やっぱり10年前と同じく「夢舞台 東海道 」ではないか?と気づいて、静岡県に入ってからの道標の写真をチェックし直してみたら、どれもすべてちゃんと、「夢舞台 東海道」と書いてありました。

なるべく書き直したつもりですが、もしいまだに「夢街道 東海道」と書いたままの箇所がありましたら、こんな経緯であることをお察しいただいて、ご容赦ください。


【夏目甕麿、加納諸平生誕地】

14:26 夏目甕麿、加納諸平生誕地碑
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案内板
「 夏目甕麿(みかまろ)邸跡

白須賀生まれの国学者、夏目甕麿は通称嘉右衛門萩園と号した。酒造業とし、国学を内山真龍(またつ)に学び、のちに本居宣長の門に名を連ねた。賀茂真淵の『万葉集遠江歌考』『鈴の屋大人都日記』等を上梓出版して国学の普及につとめた。著書に『古野の若菜』等数編がある。文政五年(一八二二)没。
子供の加納諸平(もろひら)は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平(おおひら)のもとに寄寓。乞われて加納家の養子となり、のちに紀州候に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。
諸平には『当代類題和歌選集』のほかに柿園詠草拾遺等の家集をはじめ、数多くの著作がある。安政三年(一八五六)没。
湖西市教育委員会

14:34 火除け地跡碑
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案内板
湖西市指定文化財
白須賀の火防

東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ宝永五年(一七〇八)潮見坂の下から坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を、元宿と呼ぶのはその為である。
宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、たびたび火災が発生し、然も大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根がわら葺きであったことにも依る。
そこで此の火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。
火防の広さは、間口二間(三・六M)奥行四間半(八・二M)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、之は宿内に三地点、六場所の火防があった。

昭和五十九年十一月三十日
湖西市教育委員会

今までも火防ってたまに見かけた気がしますが、私は勝手に、防火用水地とか、地元民による消防団や、火の用心見回りのようなものだと思っていました。

上野広小路のように、火をくい止める空き地を作ったり、火に強い槙を植えたり、そんな生活の知恵の場所を地元のみんなで作って守っていたんですね。


【谷川道標、高札場跡、笠子神社】


14:37 谷川道道
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右に伸びる道が谷川道らしいです。

14:37 高札場跡
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14:39 道の反対側に笠子神社
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高波や津波などにあって二度移転をし、元和二年(1616)に現在地に移ったといわれています。


2度目の東海道13日目の6(ハロー愛知県〜二川宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/12/25/164333