紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

富士見公園 由来

案内板
「   公園由来

 明治37年11月、左千夫は甲州御嶽歌会の後を韮崎より馬車で入信し、上諏訪にて赤彦と初対面した。明治、大正時代の日本短歌会をリードする二人の劇的な出会いである。
 この頃よりアララギ同人の富士見来訪多く、明治41年10月富士見油屋歌会に来遊した左千夫は、「財ほしき思いは起る草花のくしく富士見に庵まぐかね」と原之茶屋の一小丘に立ちて、「ここは自然の大公園だ。自然を損わぬように公園を作りたい。」と腹案をもらされた。
 村人は、赤彦を通じ左千夫に設計を依頼し、明治44年左千夫の指示を受け、富士見村や原之茶屋の協力によって富士見公園は出来上がった。
 早春の芽吹きから、花、新緑、鮮やかな紅葉と四囲に高峰を望むこの公園は詩歌の里としての希い多く、左千夫歌碑が大正12年に、赤彦歌碑は昭和12年に、昭和40年に茂吉歌碑の建立を見るに至り3基の句碑と共に歌碑公園として、文学愛好者の訪れが絶えない。 」

富士見町 透間の馬頭観音像


案内板
「 富士見町指定有形文化財

 透間の馬頭観音

 ここは、旧甲州街道(道中)近くの通称観音窪と呼ばれる地籍である。
 透間(とうかん)は宝永二年(一七〇五)、乙事村(おっことむら)三井伊左衛門の長男に生まれ、通称は藤助といい、晩年には茂右衛門と名乗った。農業を営むかたわら、近村の麻などを買い集めて、甲府の問屋などに送っていたが、後には甲府に出て詫間屋という商家の養子となり、酒・醤油などの物産商を営み、諏訪地方との交易も多かった。
 同時原之茶屋付近の甲州街道は現在より西寄りを通っていたが、道路状況が悪く、ことに春先にはぬかるみおなって人馬の通行が難渋した。透間はこの改修を思い立ち、自分は甲府に住んでいたので乙事村の弟達の連名をもって藩から改修の許可を受け、安永九年(一七八〇)、私財を投じて工事を始めた。特に現在の塚平(つかだいら)から原の茶屋北口までの間は新道を開くなどして、改修工事は翌天明元年(一七八一)六月に完成した。透間は竣工にあたって、改修の記念と人々の道中安全を祈願して新道の途中に馬頭観音を建立した。これが今に残る石仏で、総高一四六センチ、二段の台石の上に三面六臂(ろっぴ)の憤怒(ふんぬ)像の観音様が安直されている。
 台石の裏に
  乙事村
三井伊左衛門 同 藤右衛門 同 重左衛門
同 権左衛門  五味三郎兵衛 一嶽信翁庵主
甲斐無禅透関居士
天明元辛丑六月上澣

と刻まれており、一族がこぞって改修に協力したことがうかがわれる。また、乙事三井家所蔵の諸費用帳には『馬頭観音七両二百九文石工其他共、道がかり五拾参両二分十九文、切石ツケ馬〆百一匹、人足千八百六十人、飯炊き百十二人』との記録が残されている。

  平成十七年三月
         富士見町教育委員会 」

蔦木宿 御膳水と与謝野晶子歌碑


案内板
「  この水は七里ケ岩から出る湧水であり明治天皇がご巡幸の折に使われた、御膳水であります。
 その御膳水と、あと二箇所の湧水を使用して、明治三十九年頃、蔦木宿の街道筋に、十六箇所の水道施設を造り、飲料水として昭和二十六・七年頃まで使用されていたものです。
 当時の施設の石が保存されていたのでここに復元いたしました。
     平成九年十月吉日 富士見町

白じらと 並木のもとの石の樋が
秋の水吐く蔦木宿かな
        与謝野晶子詠   」

甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革

案内板
「  甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革

 蔦木宿は江戸幕府の宿駅制度のよって、慶長十六年(一六一一)ころ甲州道中第四十三番目の宿駅として設置された。街は街道に面して屋敷割をし、本陣・問屋などが位置づけられた。本陣の規模は広大で多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた。この宿駅は、元禄十五年(一七〇二)、延享三年(一七四六)、明和八年(一七七一)、寛政六年(一七九四)、文化六年(一八〇九)、元治元年(一八六四)の計六回の大火にあい罹災戸数も知られているが本陣の類焼についての詳細は不明である。
 この宿場街は、明治維新による宿駅制度廃止と、さらに、鉄道がこの宿駅から離れたところに敷設されたため次第にさびれていった。本陣も主屋は、明治四十年(一九〇七)に南原山に移築され、渡辺別荘(分水荘)として活用されていたが、老朽化したため昭和五十年代に取り壊された。本陣主屋は弘化三年(一八四六)五月の建築であり、甲州道中における、本陣建築の遺構として惜しまれる建造物であった。
 この表門は、構造手法、および使用材料よりみて、主屋より新しく江戸末期の元治元年の火災後の復興になるものと考えられる。明治三十八年(一九〇五)池袋区の、平出武平氏がゆずり受け、同家の正門としていたが、平成二年(一九九〇)本屋取りこわしに際して町の歴史民族資料館に保存された。
 かつての蔦木宿の面影をしのび、心のよりどころとの区民の強い要望から、平成四年(一九九二)七月本陣跡地に復元された。建物の造りは簡素であるが数少ない本陣表門として貴重な遺構である。


本陣表門の構造形式(概要)

 棟門、銅版葺、背面腰高片袖付、支柱付、西側面袖塀付、平面桁行一間半、一間菱格子付板扉内両開、半間潜板扉内開、軸組土台に柱を立て上部を棟木で繋ぐ、一軒疎垂木、妻千鳥破風造り、屋根銅版葺に樋棟を乗せて、中陰蔦紋で飾る。

     平成六年三月吉日
     富士見町教育委員会 
     上蔦木区      」

日蓮上人高座石

案内板
「 富士見町指定史跡
    日蓮上人の高座石

 文永十一年(一二七四)三月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったが、その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになった。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫した。下蔦木(当時は甲斐領・蘿木郷)に立ち寄ったのはこの時である。
 伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は三日三晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたという。その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住職も感応して名を日誘と改め、日蓮宗に改宗したといわれる。また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽が生えて岩を覆うようになったとも伝えられる。その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた)を建てて上人をまつり、近郷への布教につとめたという。   


 富士見町指定天然記念物
敬冠院境内付近の樹木

 敬冠院境内と付近に現存するサルスベリヤブツバキ、シュロ、ビワなどの樹木は、冬もあたたかな暖帯に生育する植物で、当地方のような高冷地で数種がこれほど大木に生長していることはきわめて稀である。
 とくにサルスベリは推定樹齢二〇〇年と目され、これほどの大木は近隣に類例がない。

                             平成十一年三月           
     富士見町教育委員会 」

山口関所跡

案内板
「 町指定文化財(史跡) 
    山口関所跡

 甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
 ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(一五四六)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。『甲斐国志(一八一四)』によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(一七〇五)に本栖の口留番所から移ってきた。
 この番所の記録に残る大きな出来事に、天保七年(一八三六)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が『扶持召し上げられ』の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治2年番所が廃せられるまで勤め、明治六年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。
 今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取宅に保存されている。  」

台ケ原宿 修験 智拳寺跡

案内板
「  ③修験 智拳寺跡

 山岳宗教と仏教が習合された信仰的宗教が修験である。奈良時代役小角を開祖として始まったといわれている。室町時代には、天台宗系本山脈、真言宗系を当山脈としていた。
 甲斐国誌によれば、県内の本山脈は八十五院当山脈が二百四十院あった。智拳寺は、当山脈に属して、勝軍山と号し、甲斐国の府中の宝蔵院、堺町の明玉院とともに三触頭の一院として、文政十三年には男女各二人がいて除地四畝二十四歩を領有し権勢を誇り、布教に努めていた。
 尚、台ヶ原村年中行事である「除昆虫祭祀」にも田中神社、龍福寺とともに参画し、地域に密着した活動を続けていたが、明治四年の神仏分離令により傘下の各院とともに廃寺になった。
     平成十七年三月吉日 台ヶ原区  」

石碑「甲州台ケ原宿とお茶壺道中」

石碑「甲州台ケ原宿とお茶壺道中」

「 甲州台ケ原宿とお茶壺道中

 お茶壺道中とは、江戸時代に将軍家御用達の新茶を京都宇治から江戸城まで運んだ行列である。行列の格式は極めて高く御三家の大名行列さえ道を譲っていた。また、庶民にとってもズイズイズッコロバシのわらべ謡の歌詩の中にある『茶ツボニ追ワレテドンピンシャン抜ケタラドンドコショ』のように日常生活に迷惑な行列であった。
 行列は、毎年四月に江戸城を出発し帰路は中仙道奈良井宿と下諏訪に逗留後、甲州路へと入り台ケ原宿田中神社の拝殿に一泊し谷村勝沼町で夏の暑さを避けて収蔵し秋口に江戸城へと搬入されていた。この行列には寛永十年から元禄三年まで行われていたという記録がある。
 甲斐国史によれば、お茶壺道中が田中神社に一泊するので、柱や壁に落書きすることを禁じ修造料として金拾料を二度にわたって拝領したと記述している。故に台ケ原宿とお茶壺道中は史実が語るゆかりの里である。  」

案内板 ④お茶壺道中と当社の由来

案内板
「 ④ お茶壺道中と当社の由来 

 お茶壺道中は、江戸幕府三代将軍家光の寛永十年から毎年四月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、江戸城へ運んだ行列である。
 行列の往路は東海道であったが、帰路は中仙道を経て甲州街道へ入り、谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入されていた。この茶壷行列は権威が高く、御三家の大名行列さえも道を譲らなければならないほど格式の高い行列であった。
 資料によれば、このお茶壷行列は、中仙道奈良井宿下諏訪宿に逗留後、当田中神社に宿泊したと記録されている。甲斐国誌には「此ノ拝殿昔時ハ毎年御茶壷一泊ノ処ナル故ニ修造料トシテ金拾両宛二度拝領セリ、慶安五年六月ノ立札ノ写ニ御茶壷毎年当社拝殿御一泊候間拝殿並ニ御番所柱壁等落書一切仕ル間候」とあり、また「御茶壷通行ノ停マリシハ元禄三年ナリト見タリ」と記されている。故に当社は、お茶壺道中とゆかりがあり、由緒ある神社である。

     平成十六年十月吉日 台ヶ原区 」

台ケ原宿 荒尾神社と田中神社

案内板
「  甲州街道 台ケ原宿
  荒尾神社と田中神社

荒尾神社は、もと中山の麓の根古屋にあった。祭神は罔象女命日本武尊である。
 甲斐国誌に「荒キ尾白川ニ臨ムノ意ニテ荒尾ト名付クト云」とあり、尾白川の氾濫などから村人が、台ヶ原などに移り住むようになり、明治四十三年に台ヶ原田中神社境内に境内神社末社を合祀、大正三年四月五日その境内に遷都した。
 田中神社は、祭神は大己貴命と媛太神で、安産の神として近郷に知られていた。
 この拝殿は、江戸時代(慶安五年から元禄三年)にお茶壺道中の宿舎に当てられ、二回修造料として各拾両宛拝領の記録がある。
 なお、甲斐国誌に「祀側ニ虎石アリ故ニ古来本村ニテハ獅子舞ヲ禁シテ入レス正月十四日道祖神祭ニモ虎舞ト名付ケテ他村ノ獅子トハ其形異ナリ」とあり、明治初年頃まで虎舞が続けられていた。虎頭のみ残して絶えていたこの舞を、近年集落の若者を中心に保存会が発足し、復活させた。
 また境内を出発地として明治初年まで行われていた昆虫除けの祭礼は、資料が残存していて、江戸末期の農村事情を知ることができる。

   平成九年七月吉日 白州町教育委員会

台ケ原宿 北原家住宅四棟

案内板
「   山梨県有形文化財
  北原家住宅四棟


 主  屋  桁行18.1m、梁間18.7m、一重一部二階 切妻造 銅版葺
      附  表門及び両脇屋根塀
   奥便所  桁行3.8m、梁間2.6m、一重 切妻造 銅版葺 主屋間の渡り廊下を含む
   文庫蔵  土蔵造、桁行7.3m、梁間5.5m、一重二階 銅版葺
   文化蔵  土蔵造、桁行14.5m、梁間5.5m、一重一部二階 切妻造 割板葺

指定年月日 平成十二年十月十二日


 当家は、寛延二年(1749)頃、信州の高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義が、この地に分家をして大中屋(現山梨銘醸株式会社)という屋号で酒造りを創めたと伝える。以来営業は大いに発展し幕末には諏訪高遠藩、伊那高遠藩の御用商人を務め、また脇本陣をも兼ねていた豪商である。
 降って、明治十三年(1880)に明治天皇本県御巡行の際は行在所となった。6
 北原家住宅は、台ヶ原宿の街道に面して建つ大規模な町屋建築である。主屋は主部の桁行が十間、梁間十間半で、東側の土間、店舗および居住部分から構成され、一部に二階居室がある。西側につづく突起部は桁行が六間、梁間七間半で、南面に式台付き玄関、北西に座敷部分が並び、総桁行は十六間に及ぶ。屋根は緩勾配の切妻造りで銅板葺になっているが、もとは石置き板葺屋根であった。玄関の正面には両脇に塀を付けた表門が建つ。
 とくに座敷部は三室を南北に並べた配位で、格式の高さを示し、北端の奥座敷(行在所)は座敷飾に床の間、違棚、付書院を備えた十畳間で北側に畳廊下が付く。奥座敷と中の間堺との欄間装飾は「竹林の七賢人」の彫刻である。
 これは立川流宮大工・彫刻師として名高い立川専四郎富種の作品であり、酒名「七賢」の由来とされる。
 建築年代は天保年間(1830-43)から嘉永七年(1854)にかけて完成したと考えられる。主屋はじめ文庫蔵等付属建物が当時の状態でよく保存され、また建築関係資料も多く残されており、江戸時代末期の優れた商家遺産である。
     平成十二年十月十二日 
         山梨県教育委員会 
         白州町教育委員会 」

台ケ原宿 登記所跡

案内板
「    登記所跡

 この登記所は、明治二十四年二月甲府区裁判所若神子出張所の管轄のうち、菅原村外十ヶ村を分離し、管轄するために開庁された。
 はじめは、龍福寺の庫裡を借りて庁舎としたが、その後、民間の個人宅を借りて業務を行ってきた。しかし、大正元年十二月に庁舎が新築落成し、以来業務を行ってきた。その後の機構改革により、大正十年七月より現在の白州町と武川村をその管轄としたが、昭和五十年三月韮崎出張所に統合され廃所になった。

   平成十六年十月吉日   」

本陣跡と秋葉大権現常夜石燈籠


案内板
「 ⑭ 本陣跡

 大名が陣を敷いた場所というところから、大名級の者が宿泊した所である。したがって、規模は広大であり、門を建て玄関を設け、上段の間を有することで一般の旅籠と区別され、一般の旅籠には許されない書院造りの建築様式であった。
 天明2年の記録に、敷地は間口十八間、奥行き十九間の三百五十一坪で建坪は九十二坪であった。

秋葉大権現常夜石灯籠の由来

 往年、台ヶ原宿が火災と水害に見舞われたことに起因して、慶應三年『秋月講』というグループが誕生し、防火を念願して『秋葉大権現』の石灯籠を旧小松家(本陣)屋敷跡に建立して、大火の防火を祈願した。
 その後、『秋葉講』としてグループが広がり、年々秋葉山に代参をたて、地域の火災予防に寄与してきたが、諸般の事情により自然消滅した。近年、集落内に火災が続発し、恐怖心に包まれた折りもこの石燈籠が地元住民の心の支えになり、毎年、十二月十五日を祈願祭としている。

       記
建立年月日 慶応三年十一月祭日

 平成十六年十月吉日 台ケ原区  」

立場跡と共同井戸跡

案内板
「 立場跡と共同井戸跡

◎立場跡
 立場は宿駅の出入り口にあり、旅人・籠かき・人足・伝馬などが休憩する掛け茶屋であった。建坪が四十二坪で、時には旅籠としても利用されていた。

◎共同井戸跡
 昔は、湧き水や川水などが生活用水として利用されていたが、衛生面から井戸を掘って、共同で維持・管理し、数戸から十数戸が利用していた。当初は、つるべ式の揚水施設であったが、後に揚水ポンプが導入され便利になった。
 井戸端には多くの人が集まって井戸端会議が行われ世間話やふれいの場として賑わった。
しかし、昭和三十年から白州町になり全戸に町水道が普及したので、各所にあった共同井戸は廃止されるようになった。

 平成十七年三月吉日 台ケ原区 」

庚申塔と馬頭観世音


案内板
「 ⑲ 庚申塔と馬頭観世音

◎ 庚申塔
 庚申塔とは、干支(えと)の庚と申が結びついた六十年に一度回ってくる年や日のことである。
 庚申の夜は、眠ると人の体の中の三尸(さんし)という虫が抜け出して、天の神の所に行って悪口を告げるので、その日は『守庚申』といって身を謹んで一夜を送る。
 庚申塔は集落中に建てられたが、文字だけのものと青面金剛を主尊とする庚申の神を彫ったものとがあった。江戸時代に入ると、各地に『庚申講』がつくられて、供養のための庚申塔が建立された。

 
◎ 馬頭観世音
 馬頭観音は馬の守り神であり、石仏として地蔵、庚申塔とともに親しまれてきた石造物で、馬頭観世音の字だけ彫ったものと、馬の頭に冠をつけた馬頭観世音がある。
馬は古来より労働力として、農耕、運搬、乗用として重用されていたので、馬の供養と無病息災の祈願を込めて建立されていた。馬の頭上の冠は、生死の大海を渡った四魔を承伏する大威力や精神力、無明の重障を食い尽くすとの意味がある。

  平成十七年三月吉日  台ケ原区  」