紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

横山の道標


案内板
「  ㉒ 横山の道標

 ここの道を古道という。古府中より穴山、
日野を経て台ヶ原村へ通じる道で、後に「は
らぢみち」ともいわれていた昔日の主要道路
である。
 甲州道中の開設により台ヶ原村 への入口で
もあったので、江戸時代には交通の足である
馬の四魔を承伏し、交通の安全を祈願して建
てられた馬頭観世音 の側面に道しるべとして
「右かうふみち」「左はらぢ通」と記されて
いる。
甲州台ヶ原宿 に現存する唯一の道標である。

  平成十七年三月吉日
          台ヶ原区  」

甲斐市竜王新町丸石道祖神 古跡保存標識


案内板
「  古跡保存標識

1、名称「竜王新町下宿道祖神場」
 ※(1) 道祖神、丸石神体径45cm(銘)衢神、文正文七申極月、氏子中
  (2) 白檀古樹(種別大木)目通130cm 樹齢約200年、主幹奇形
  (3) 古井戸、明治初年掘削、コンクリート巻、枠径96cm近辺共同井戸、現不使用

2、所在地 竜王町竜王新町元免許325-2番地(地積6坪)

3、由来
 ここは江戸時代村人の互助的な集会協議実行の場所として地域発展の基点となった「寄り合い場」である。村の道路に河川、農産、慶弔交際または、盆、正月、祭り、相撲大会 などすべてのことがここで民主的に協議されたものである。
 ここは往時50坪の地積であったが大部分が道路用地となったのでこの由緒ある地積を保存すべく、昭和8年小菅貞三氏等の主唱により大蔵省から払い下げ、十人の共有地となっている。
 以上の理由により、町内にも他に例の無い地域発展の基点であった貴重な古跡であることからこれを将来に保存すべく「保存標識」を設置するものである。
  
   平成2年11月  
      竜王町竜王新町五区  」

連歌発祥の地


案内板
「 連歌発祥の地

 景行天皇の皇子日本武尊は、蝦夷制服の帰途、『日本書紀』によれば、常陸を経て甲斐国に入り、此処、酒折の宮にしばらく居られた。
 着宮の夜、皇子が歌をもって、
  新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
と問われたのに対し、ひ燭人(ともしびと)が
  かがなべて夜には九夜日には十日を
と唱和した故事は有名である。
 後世、連歌を『筑波の道』と呼ぶのもこれによるもので、歌体は片歌ながら、連歌濫觴(らんしょう はじめ)とされており、当地を訪れた文人墨客が多かった。

 昭和六十一年七月 小野成三奉納  」

石和本陣跡(市指定史跡文化財)

案内板
「  石和本陣跡(市指定史跡文化財)


宝暦11年(1761) 信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて本道 ようじんべえ 中を通行することになり、 石和宿仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことが けいじょう はじめといわれる。以来子孫が継承して明治に至った。 明治以降も旅篭 しょうしつ として利用したが、 明治13年 (1880) 6月7日の石和の大火により焼失し、 現在はわずかに土蔵1棟と諸大名通行の書状および古記録文書等が残っ ている。  」

石和宿本陣跡

案内板
「   石和本陣跡

 本陣は江戸時代、大名公家幕府の役人高貴な人の宿泊する所である。 
 石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城10万石を初め全国の諸大名が宿泊し、大名宿とも言われ明治維新まで続いた。
 建物は書院造りで門、玄関、上段の間を備えて広大な構えであった。
 明治13年6月16日明治天皇御巡幸のみぎり御休憩所御予定のところ、同月6日、大火により焼失、現在土蔵1棟のみ現存している。

 所在地 石和町市部一、〇五一番地
  
         石和町   」

勝沼学校跡


案内板
「 勝沼学校跡

 勝沼町内には、明治九年に造られた祝学校と明治十三年に造られた勝沼学校の二棟の藤村式学校建築がありました。共に南部下山大工の松木輝殷(てるしげ)が手掛けたものです。
 勝沼学校は、勝沼町と等々力村の学校として建てられ、明治十三年六月の明治天皇御巡幸の折り安在所となりました。木造二階建て、一階に車寄、二階にベランダをそなえたE字型校舎でその後の学校建築や、明治村にある東山梨郡役所などの庁舎建築に大きな影響をあたえました。昭和三十年四月に取り壊されてしまいましたが、玄関の柱と扉が今も保存されています。

       勝沼町 教育委員会 」    

旧田中銀行社屋


案内板
「  旧田中銀行社屋 
       国登録有形文化財

 明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた洋風の建物。大正9年より昭和7年ごろまで『山梨田中銀行』の社屋として利用されていました。
 外壁は砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに洋風建築の名残があります。建物内はその後の変遷でだいぶ間仕切り等変更されていますが、落ち着いた室内になっています。
 また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に『山梨田中銀行』の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。

                                        勝沼町 教育委員会  」

勝沼宿仲松屋


案内板
「  勝沼宿仲松屋

 勝沼宿 仲町の中松屋住宅は、江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治前期の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした、板葺、二階建建築で、通り土間を挟み明治後期に一階
を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵屋敷などから構成されている。東西両屋敷建物群は江戸後期から、明治の勝沼宿の建築を知る上で貴重である。

       勝沼町教育委員会  」

柏尾の古戦場

案内板
「   柏尾の古戦場

 明治元年(1868)3月6日、近藤勇率いるかつての新撰組会津藩甲陽鎮撫隊因幡、土佐、高遠藩兵からなる官軍がこの地で戦った。
 甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、勝沼宿に2ヵ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道岩崎方面、菱山越の三手に別れ、攻撃を加えた官軍の前に敗れ敢え無く敗走した。
 この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。町内にはこの戦いで戦死した3人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が3個伝えられている。  」

柏尾坂の馬頭観音


案内板
「  柏尾坂の馬頭観音

 明治36年(1903)中央本線が開通するまで「甲斐駒や江戸へ江戸へと柿葡萄」(其角)が伝えるように、甲州街道の物流を担っていたのは馬である。街道に沿って配置された宿場には、高札で次の宿までの馬での運送賃が駄賃として掲げられていた。しかし、街道には難所も多く、そこで息絶える馬もあり、供養のため、馬頭観音が数多く建立された。柏尾坂の馬頭観音は、ころび石とも呼ばれた急坂に、天保7年(1836)8月に勝沼宿の脇本陣家が中心となり惣伝馬の講中が、信州高遠北原村の石工太蔵を招いて建立したもので、三面に馬頭観音を含む彫像が刻まれ、勝沼宿の管内では柏尾の袖切観音とならび優れた造形を有したものである。  」

柏尾の戦い

案内板
「   柏尾の戦い

 慶応4年(1868)3月5日、江戸より大久保剛(近藤勇)率いる幕府軍は、柏尾橋の東詰、鳥居の前に本陣を据え、大砲を二門据えつけ、宿内二箇所に通りを遮る柵門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。夜にはいたる所で簿火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。
 3月5日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道因幡藩、諏訪藩、土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える 因幡藩隊の3手に分け柏尾に迫った。
 3月6日午後、最初の銃声は、等々カ村と勝沼宿の境に造られた柵門の所で起こった。幕府軍二人をねらって官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。柵を破って進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具をすべて外させ、家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。このとき通りに飛び出してしまった女性が一人撃たれてしまったという。宿通りを進軍する官
軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進撃路を防いだ。官軍は、五所大神の南のダイホウインの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、打ち合いが行われた。岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで官軍の勝利に終わった。」

柏尾橋

案内板
「   柏尾橋

 明治13年6月明治天皇の山梨御巡幸に際し、甲州街道の拡幅整備が進められた。
 この時柏尾橋は、幅3間長さ19間の欄干付き木造橋として掛け替えられた。橋は深沢の両岸の岩盤中程から、二段の石垣を積み上げ橋台とし、下段の石垣からトラス構造の橋脚を両岸から突き出し連結したもので、明治26年の版画や大正初期の銅版画が残されている。
 この明治橋の北側には、大正から昭和初期に掛け替えられた橋台、さらに江戸時代の橋台が
残っており、南には、現在の鉄骨橋、平成8年、さらに下流甲州街道以前の大善寺東参道の橋があった位置に祗園橋が掛けられた。  

         勝沼町  教育委員会 」

史跡 鶴瀬関所跡

案内板
「  史跡 鶴瀬関所跡

 甲州道中鶴瀬宿東のこの地は、北は山々に閉ざされ、南は日川に阻まれた天然の要害となっており、郡内領より笹子峠を越えて国中に通ずる要所にあたり、ここを通らずして江戸への出入りが難しいこの地に関所が設けられました。
 この関は甲州道中の小仏関につぐ口留番所として、上り男手形不要、女上下とも改めて、江戸への鉄砲の入りと、大名妻女の江戸からの脱出「入り鉄砲に出女」を特に警戒したと云われています。
 女の番所通過には、代官・甲府勤番支配・駿府町奉行の手形が必要であり、諸国の神仏参詣には、住所地の名主手形で通行させたと云われています。
 安永五年(一七七六)までは佐藤氏が番人を務めたが、同年後は小宮山氏にかわり、高米二十俵・二人扶持が給せられた。さらに下番二人ずつを村役として鶴瀬・日影・初鹿野の三村が務めました。
 関は明け六つ(午前六時)に開門、暮れ六つ(午後六時)に閉門した。享保年間の検地に八間半の間口三間半口留番所一畝歩と言い伝えられています。
 また、参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩でした。
 特に鶴瀬の関は甲州一二関の一つとも云われ重要視され、江戸時代を通じて機能を果たしてきたせきしょであったが、明治二年(一八六九)に廃関され建物は取り壊されました。
 現在は、道路の拡幅等により往時の面影は失われてしまいましたが、『木戸下』の小字名は残り、後世に残す遺跡として市の史跡に指定されています。

平成二十六年三月 大和まちづくり推進会」

案内板 笹子峠 甲州峠唄

案内板
「  笹子峠

 徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)
を開通させました。
 笹子峠はほぼその中間で江戸から約二十七里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱千五十六米、上下三里の難所でした。
 峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて広場には常時、馬が二十頭程繋がれていました。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等がありました。また、この峠を往来した当時の旅人を偲んで昭和六十一年二月十二日、次のような唄が作られ発表されました。

       甲州峠唄                        
             作詞 金田一春彦    
             作曲 西岡 文朗

    あれに白いは コブシの花か
    峠三里は  春がすみ
    うしろ見返りゃ  今来た道は 
    林の中を  見え隠れ
    高くさえずる   妻恋雲雀
    おれも歌おうか あの歌を
    ここは何処だと  馬子衆に問えば
    ここは甲州  笹子道

 この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり昭和六十二年五月、清水橋から
峠まで地域推進の一環として、日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して歩行の出来る状態にしました。
                                                 佐藤 達明 文   」

        

笹子隧道について

案内板
「  笹子隧道について

 四方を山に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠です。
 この難所に開削された笹子隧道は、昭和十一年から十三年まで、国庫補助を入れて二八万六千七百円の工費を投入し昭和十三年三月に完成しました。抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的であります。
 昭和三三年新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨、遠くは長野辺りから東京までの幹線道路として甲州街道の交通を支えていました。南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離十数キロメートル、幅員が狭くつづら折りのカーブも大変多いためまさしく難所で、遥か東の東京はまだまだ遠い都だったことでしょう。
 昭和前期の大役を終え静寂の中にあるこのトンネルは、平成十一年、登録有形文化財に指定されました。

     大月土木事務所   」