紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

史跡 鶴瀬関所跡

案内板
「  史跡 鶴瀬関所跡

 甲州道中鶴瀬宿東のこの地は、北は山々に閉ざされ、南は日川に阻まれた天然の要害となっており、郡内領より笹子峠を越えて国中に通ずる要所にあたり、ここを通らずして江戸への出入りが難しいこの地に関所が設けられました。
 この関は甲州道中の小仏関につぐ口留番所として、上り男手形不要、女上下とも改めて、江戸への鉄砲の入りと、大名妻女の江戸からの脱出「入り鉄砲に出女」を特に警戒したと云われています。
 女の番所通過には、代官・甲府勤番支配・駿府町奉行の手形が必要であり、諸国の神仏参詣には、住所地の名主手形で通行させたと云われています。
 安永五年(一七七六)までは佐藤氏が番人を務めたが、同年後は小宮山氏にかわり、高米二十俵・二人扶持が給せられた。さらに下番二人ずつを村役として鶴瀬・日影・初鹿野の三村が務めました。
 関は明け六つ(午前六時)に開門、暮れ六つ(午後六時)に閉門した。享保年間の検地に八間半の間口三間半口留番所一畝歩と言い伝えられています。
 また、参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩でした。
 特に鶴瀬の関は甲州一二関の一つとも云われ重要視され、江戸時代を通じて機能を果たしてきたせきしょであったが、明治二年(一八六九)に廃関され建物は取り壊されました。
 現在は、道路の拡幅等により往時の面影は失われてしまいましたが、『木戸下』の小字名は残り、後世に残す遺跡として市の史跡に指定されています。

平成二十六年三月 大和まちづくり推進会」