紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

柏尾の戦い

案内板
「   柏尾の戦い

 慶応4年(1868)3月5日、江戸より大久保剛(近藤勇)率いる幕府軍は、柏尾橋の東詰、鳥居の前に本陣を据え、大砲を二門据えつけ、宿内二箇所に通りを遮る柵門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。夜にはいたる所で簿火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。
 3月5日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道因幡藩、諏訪藩、土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える 因幡藩隊の3手に分け柏尾に迫った。
 3月6日午後、最初の銃声は、等々カ村と勝沼宿の境に造られた柵門の所で起こった。幕府軍二人をねらって官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。柵を破って進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具をすべて外させ、家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。このとき通りに飛び出してしまった女性が一人撃たれてしまったという。宿通りを進軍する官
軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進撃路を防いだ。官軍は、五所大神の南のダイホウインの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、打ち合いが行われた。岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで官軍の勝利に終わった。」