紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

金沢くらしの博物館と金沢市立紫錦台中学校

 

金沢くらしの博物館ホームページより


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【三尖塔校舎(国重要文化財「旧石川県第二中学校本館」)】

博物館の建物は、明治32年 (1899) に石川県第二中学校の校舎として建てられました。入り組んだ屋根、玄関の車寄せ、上げ下げ窓、胴蛇腹、ランプ吊りなど、明治時代の西洋風木造学校建築を今に残した貴重な建物です。 

左右両翼の尖塔、そして正面玄関の上にある屋根を尖塔に見立て、金沢二中時代から 「三尖塔校舎」 と広く呼ば れてきました。

学校時代には講堂などの建物が多数ありましたが、現在は本館のみが残されています。昭和49年 (1974) に金沢 市の文化財に指定され、平成11年(1999) に石川県有形文化財の指定を受けています。

平成27年に創建当初の図面が見つかり、それまで不明であった設計者が当時石川県工師の山口孝吉であることが 判明しました。また、創建当初の姿をよく残していることが分かり、歴史的価値が評価されて平成29年11月28日に 「旧石川県第二中学校本館」 として国重要文化財の指定を受けました。

(中略)


【金沢二中】

石川県第二中学校は明治32年 (1899) 4月に創立されましたが、当初は兼六園内にあった県勧業博物館を校舎と していました。同年9月に三尖塔校舎が完成し、授業が行われました。当時は本館、そして便所などが渡り廊下でつ ながれていましたが、200名以上の生徒を収容するには不十分でした。明治35年(1902) に階段教室や生徒控所が 完成し、さらに講堂などが次々と作られていきました。

戦後の学制改革で旧制中学校 (5年制) は廃止になり、新制高校 (3年制) に引き継がれることに
なりました。このため、昭和23年 (1948) 3月をもって、二中は廃校となりました。後継校の錦丘高校が創立され たのは昭和38年 (1963) で、二中の校歌の 「紫錦が陵 (にしきがおか)の学窓に」 から校名がつけられました。

なお、残された校舎は昭和23年4月から昭和45年 (1970) まで金沢市立紫錦台 (しきんだい) 中学校の校舎とし て活用されました。このため、三尖塔校舎は今も紫錦台中の敷地内にあり、校門を入った正面に立地しています。

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昭和45年(1970)に新校舎が三尖塔校舎の裏手に完成し、中学校の校舎は新校舎に移転し、残された三尖塔校舎は金沢くらしの博物館に活用されることになり、金沢市立紫錦台中学校の正門を入ったところが金沢くらしの博物館であるため、私のように初めて来た人は、どうなっているのだろう、と不思議に思うのです。

大阪の池田小事件以来、小中学校の門は閉ざされて関係者以外立入禁止になっていることが多いのに、ここは門が大きく開けられているので、おや?と思ってしまいます。