案内板(碑)
「 飛田給薬師堂由来
飛田給薬師堂由来
今から三百年の昔貞享(一六八四~八四)のころに仙台伊達家の忠臣松前意仙行重なる人が諸国行脚のおりこの地に足をとどめ庵をむすび医業のかたわら仏道に志し衆生を済度し慈悲深き日々を送られた その後自ら瑠璃光薬師如来の石像を刻み完成したのち入寂された 意仙師の感化は里人はもとより近卿にもおよびその慈悲の深さに人々は碑を建てて信仰にはげんだと伝えられている
上石原西光寺過去帳の十二日の忌日に元禄十五年松前意仙庵正月医師と記されている 今日なお毎月十二日の命日には尊像の前で祝讃が詠唱され多くの参拝者で賑わい薬師尊奉賛会が組織されその保全にあたっている
昭和四十七年七月薬師堂と行人塚改修のおり土中にねむる遺骨が発見されが伝説の意仙氏の遺骨と思われた よって調布市文化専門委員会に視察を仰ぐとおもに専門的調査を実施した結果遺骸の状況から土中入段の伝説とほぼ一致していることが確認された 松前家は〇海道松前城主蠣崎伊豆守慶広の七男安広が初代で元和年中(一六一五~二三)白石城主片倉家に倚り伊達政宗公に仕えて忠勤を現し 伊達家準一家に列せられ安広の長男景長は片倉家の養嗣子となり大三大白石城となった 二男広目が松前家を継ぎ仙台騒動の除は綱村公の傅であった意仙氏はこの兄弟に列するのではなかろうかと推察される
なお 昭和四十八年五月十二日~十三日にかけ飛田給自治会の代表が宮城県白石市におもむき同市文化財保護委員会長片倉信光氏(白石城主片倉十郎十五代当主)を訪ねた
ここに松前意仙師の遺徳を伝えるためその由来の大要を記す
昭和六十一年九月十二日 」