紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

呂久の渡し

呂久の渡し
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案内板
「 呂久の渡し
呂久渡船場

天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり、赤坂―呂久―美江寺―河渡―加納の新路線が栄えた。
これが江戸時代の初頭に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
慶長一五年(一六一〇)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、一三を数え、中でも船年寄馬渕家には、船頭八人、助務七人が置かれた。
その頃の川幅は、平水で九〇メートル、中水で一二〇メートル、大水では一八〇メートルに及んだといわれている。
文久元年(一八六一)には、皇女和宮親子内親王中山道を御降嫁の折、この呂久川を渡られ、その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託されて、『落ちていく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ』と詠まれた。
後に、和宮様の御遺徳をしのび、昭和四年(一九二九)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした『小簾紅園』が建設され昭和四五年(一九七〇)には、巣南町(現瑞穂市)指定史跡となった。
この地『呂久の渡船』」は、大正一四年(一九二五)木曽川上流改修の揖斐川新川付け替え工事完成により、この地より東へ移り、現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることとなった。
昭和四五年(一九七〇)
呂久渡船場跡碑建立 
瑞穂市