金紋先箱を先頭に警護の武士団や、色鮮やかな装束の宮中人の絢爛豪華な大行列が蜿蜒(えんえん)と続いた。公武合体のため仁孝天皇の第八皇女和宮が、徳川十四代将軍家茂に嫁ぐため、中山道を御降嫁された時のようすは想像を絶するものであった。
惜しまじな君と民との為ならば
身は武蔵野の露と消ゆとも
と悲壮な御決意をされた宮は、文久元年(一八六一)十月二十日京都を出発され、同十月二十六日瑞穂市呂久の呂久川(現在の揖斐川)を御座船でお渡りになられた。その時、対岸の馬渕孫左衛門の庭に色麗しく紅葉しているもみじをお目にとめられ、一枝お望みになった。これを舷に立てさせられ、玉簾の中からあかずにご覧遊ばされ、
おちてゆく身と知りながら
もみじ葉の人なつかしく
こがれこそすれ
と御感慨をお詠いになられた。この御渡船を記念し、歴史ゆかりの呂久の地に和宮遺跡を保存したいという気運が上がり、昭和の初め当時の郡上郡長、本巣郡南部の村長等多くの人々が並々ならぬ努力をされた。昭和四年四月その名もゆかしい『小簾紅園』が見事に完成し、除幕式が立派に行われた。その後、毎年春と秋の二回、宮の遺徳をしのび例祭が行われている。昭和五十一年十月には、皇女和宮百年祭が秩父宮妃殿下のご来臨を仰ぎ、岐阜県知事を始め多数の御臨席を得て盛大に挙行された。
昭和六十年十月 瑞穂市 」