紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

妻籠宿 鯉ヶ岩

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案内板
「 鯉ヶ岩の由来

昔当地(妻篭)城山に木曽義仲の後裔義昌が砦を築いていた其頃武将が此の岩の附近で恋の物語をさヽやきたりと云ふ伝説あり其後部落の地名も恋野となり現在も其の儘残っている中仙道筋の旅人を驚かせたり悦ばしたりしている 信濃道中記
鯉ヶ岩は名の如く大きな鯉の形をした大岩であったが明治廿四年美濃の大震災で移動したヽめ形が変わった附近の烏帽子岩(吾妻公園地区)兜岩(神戸地区)と共に三大違和として有名である

鯉ヶ岩津島社八十一年祭に当り祠再建
昭和四十年八月四日
林 常盤 建之
雲外書 」

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案内書(紙のビラ)
「 恋岩は妻籠の北外れにあり、形が魚の鯉の形に似ていることから鯉岩と呼ばれ中仙道開設以来街道を旅する人々の目を楽しませています。
伝説によると、昔はこの辺りは川でこの岩は土石流で流されてきたとの事です。
明治二十四年の濃尾大地震で山側に倒れ、現在の姿になりましたが文化二年刊の『木曽路名所図絵』には、元の姿が描かれています。左の絵がそのコピーです。
左端で岩の説明をしている人、説明を聞きながら岩を眺めている人等、往時を偲びながら眺めて下さい。川を渡り横から眺めると鯉の頭と口が想像できると思います。尚、妻籠城跡はこの先五百メートル程行った所の山の上にあります。」
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nagareki.comより

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鯉ヶ岩(妻籠宿)概要: 「鯉岩」、「鯉ヶ岩」と呼ばれる大岩で妻籠宿の北端に位置しています。鯉岩と呼ばれるのはどうも江戸時代以降の事で、それ以前はこいはこいでも、木曽義昌木曽義仲の後裔)の家臣がこの岩付近で恋物語をささやいたという伝説などから、こちらの「恋」の方が一般的で地名の恋野の由来にもなっています。 木曽路の名所として知られ、中山道三名石(鯉ヶ岩・烏帽子岩:吾妻橋地区・兜岩:神戸地区)の一つとして江戸時代後期の文化2年(1805)に発刊された「木曽路名所絵図」にも載っていた程でした。名所絵図は文字通り、各地の名所を見た人が判りやすいようにに多くの挿絵が描かれ、現在でいうガイドマップのようなもので、木曽路名所図会は文章を秋里籬島、挿絵を西村中和が担当しています。木曽路名所絵図では鯉ヶ岩の挿絵が1ページ丸まる描かれ、説明として「鯉巖 妻籠宿の北はづれにあり、形鯉に似たるより名に呼ぶ」と記載されています。
「鯉岩」、「鯉ヶ岩」と呼ばれようになったのは江戸時代以降岩の形状が鯉が飛び跳ねている様子から鯉ヶ岩と呼ばれるようになったとされますが、明治24年(1891)の濃尾大地震震源岐阜県本巣郡西根尾村、現在の本巣市、規模はマグニチュード8.4又は8.0)により鯉の頭部分が滑落し現在の様な形状(高さ約5.6m、幅約6m)になりました。鯉ヶ岩は木曽路の名勝として貴重で歴史的な経緯や景観が評価された事から昭和51年(1976)に南木曽町指定名勝に指定されています。

木曽義仲伝説: 平安時代末期、木曽源氏の棟梁である木曽義仲が京都上洛の際、愛妾鞆絵御前(巴御前)とこの大岩の前で別れを惜しんだ事から、何時しか「恋岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。

鎌倉武将伝説: 鎌倉時代、1人の武将が合戦に赴く際、この岩の前で許婚と「戦が終わるまで、この岩の下で待っていて欲しい。もし、生きて帰ってこれたら祝言を挙げよう。」と語り熱い抱擁をして別れを告げました。合戦は見事勝利し大功を挙げた武将は、この岩で再び許婚と再会を果たし、 2人は結婚し幸せとなりました。この伝説から、何時しかこの大岩を「恋岩」と呼ぶようになったと伝えられています。

妻籠城の武将伝説: 戦国時代、木曽義仲の後裔とされる木曽義昌妻籠城を築き、徳川方の大軍が攻めかかろうとした際、城方の1人の武将が、この大岩の下に意中の女性を誘い、恋物語を聞かせて口説いていた事から、何時しか「恋岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。

石工伝説: ある石工が、この大岩から石材を切り出そうとし、ノミを入れようとしたところ、岩の精霊のものと思われる声が岩の中からしたので、石工は怖くなり逃げ出した事から、何時しか「声岩」と呼ばれるようになったと伝えられています

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