案内板
「 鴻巣市指定古文書
香具拾三組御定免
議定書
商人講中連名帳並焼印
(昭和34年9月指定)
香具仲間は露天商、大道呼び売り商人、見世物等を行う仲間を云い、江戸時代には町奉行の支配のもとに行われ、従って奉行よりその定め書きが出されている。香具拾三組御定免は大岡越前守の名を以って発せられた定め書であり、この定めに従って鴻巣商人仲間は、仲間規約即ち議定書を作成して、加入者の自主的統制を計っている。議定書の末尾には享保20年卯ノ冬の記年がある。
江戸末期に至って鴻巣宿の商業は隆盛をきわめたものと見え、豪商・紳商の話が伝えられている。商人仲間の数も大変多くなり、鴻巣講中連盟帳に名を連ねれたもの280名の多数に及び、仲間鑑札を発行して年行事がこれを監督した。
鉄製焼印は木製仲間鑑札に使用したもので三箇ある。
文化財を大切にしましょう。 」
案内板
「 鴻神社御由緒
鴻巣市本宮町一‐九
御縁起(歴史)
「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原あたりに居住したとされ、また一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心)こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
国府のことを「こう」と呼ぶのは、他 の地名国府台(こうのだい)、国府津(こうづ)などからも類推されます。
国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は国府の宮(こうのみや)であったのではないでしょうか。
御祭神
・素盞嗚尊 ・伊弉諾命 ・伊弉冊命
・速玉男命 ・事解男命 ・別雷命
御祭日
・歳旦祭(一月日)
・七五三寿祭(十一月)
・初午歳(三月午)
・新嘗祭(十一月二十三日)
・水無月大祓(六月三日)
・酉の市祭(十二月四日)
・初山祭(七月一日)
・冬至祭(十二月二十二日)
・こうのす夏祭り(七月第二日曜)
・大祓式(十二月三十日)
(須賀神社祭)
・例大祭(十月十四日)
(おおとり祭) 」
案内板
「 鴻神社
鴻神社は明治六年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といった。三社とは次の神社である。
氷川社…鴻巣宿字本宮三九〇番地(宮地五丁目)
鴻ノ宮氷川大明神あるいは端ノ宮(ハジノミヤ・ハタノミヤ)ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であった。 氷川社の神額は現在も鴻神社に残されている。
熊野社…鴻巣宿字本宮三八九番地(宮地一丁目)
熊野権現と称していた古社で氷川明神を端ノ宮と称したのに対し中ノ宮と呼んだ。合祀前は社地三〇〇〇坪を有し、巨木におおわれた森林であったという。
竹ノ森雷電社…鴻巣宿字東側二二八三番地(現在地)
雷電社は現在地に鎮座していたもので、「竹ノ森」の名があるように付近には竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、天明期には遍照寺(常勝寺末)持となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社であった。
現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治六年九月二十四日に社号を鴻三社と定めた。
明治三十五年から四十年にかけてはさらに鴻巣町内に所在した日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して明治四十年四月八日、社号を鴻神社と改めて現在に至っている。
ここには鴻巣市の文化財に指定されている『 香具拾三組御定免』『議定書』『商人講中連名帳並焼印』等貴重な史料が残されている。
また、ここ鴻神社では十月十四日の例大祭のほか、ゑんぎ市や酉の市、夏まつりなど様々な行事がおこなわれている。
昭和六十三年三月 」