岡 朝子の俳句と街道歩き旅

Yahooブログで文章置き場にしていましたが、引っ越してきたので、その後の俳句もぼちぼち更新していきたいと思います。

2度目の中山道4日目の2(間の宿吹上〜熊谷宿への道)

2度目の中山道4日目の2
3月9日(月)の2


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【間の宿吹上】

9:22 間の宿吹上碑
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彩の国さいたま平成の道標

案内板
「 吹上『間の宿』

中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の『あいの宿』として発展した町ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。
しかし、それにもかゝわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの『日光火の番道』と、中山道が町の中心部で交差すること。また、鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として『お休み本陣』や、馬次ぎの『立場』を設置する必要があったからです。
年に三〇家もの大名が江戸や国許へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた『吹上宿』。中でも信濃俳人小林一茶や加舎白雄、狂歌師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵市の池田英泉などはそれぞれ得意な作品をのこしています。そして江戸以来、吹上の名物は『忍のさし足袋』と荒川の『うなぎ』、『榎戸の目薬』も街道の名物にかぞえられていました。
この場所は、かっての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています。 」


吹上の地名由来について

1.日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より

吹上は、 荒川の沖積低地にあり、市街地は自然堤防上に位置する。付近は荒川扇状地の末端にあたり、かつては至る所で掘抜き井戸から自噴水がわき出ていた。吹上の地名もこれに由来するとの説がある。

https://folklore2017.com/timei900/676.htmより 吹上の地名由来

2. 砂を吹き上げる地。【出典 埼玉県地名辞典 韮塚一三郎 関東図書 】

3. 荒川の土砂が吹き上げられて土地ができたことに由来する。【JR・第三セクター 全駅ルーツ事典 村石利夫 東京堂出版

4.「風が砂を吹き上げる所」という。または、「はき(崖・崩壊地)」+「あげ(上)」の転で、「崩れやすい自然堤防の上」という意味。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】  

英泉の「吹上富士」
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これは、英泉の「吹上富士」を私風に描いたものです。
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JR高崎線跨線橋を渡ります。
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跨線橋の上から富士山が見えました!
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【榎戸村・元荒川起点・権八地蔵】

9:35 「中山道榎戸村」標石
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「熊谷宿まで二里
(約七・九粁)
鴻巣宿まで二里十五町
(約九・六粁)

中山道の方へは一旦行かず、右へ行くとすぐに、トイレがありました。

9:37 元荒川起点石碑
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煉瓦の橋の柱がクラシカルで素敵です。

9:39 権八延命地蔵
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案内板
鴻巣市指定民俗資料 
平成三年八月二十一日指定

権八地蔵とその物語

 権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸へ逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
 良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が犯した悪行を見ていたようでずが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾れは言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
 この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はその後捕らえられ、延宝八年(延宝七年とも)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処された。
参考:延宝八年(一六八〇)

平成二十四年二月
鴻巣市教育委員会
文化財を大切にしましょう 」

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私のとった写真(上)では、権八地蔵がよく見えないので、ネットでお借りしてきたのが下の写真。
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権八地蔵について、11年前にブログではこんな風に書いていました。

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2009.4.8.

権八地蔵というのは、東海道でも鈴ヶ森や神奈川台の田中家で名前が出た白井権八(平井権八)が、ここで人を殺め、そこにあった地蔵に「今見たことは誰にも言うなよ」と言うと、地蔵が「私は誰にも言わないから、お前も生涯話すなよ」と喋った、という話が伝わる地蔵で…不思議その1、石地蔵が喋った!…不思議その2、地蔵も権八も話さなかったなら、何故この話が後世に伝わっているのか…不思議その3、権八地蔵は3つあります。

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【久下の荒川土手を行く】

荒川土手の菜の花
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公報の放送が、新型コロナウィルス感染への注意喚起、外出自粛を促していました。

10:01 遠方に白い山が見えます。方向的に富士山ではなく、多分浅間山かなあ。
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10:05 右下マンション方向への分岐
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下り始めましたが、左上に碑が見えたので、草を踏みしだいて土手を上りました。
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10:08 決壊跡の碑
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案内板
「 1947年(昭和22)年9月
カスリーン台風による洪水で、この地点の堤防が決壊しました。

1947年(昭和22)年9月、カスリーン台風による洪水のため、ここ熊谷市久下地先で荒川の洪水が堤防を越え決壊しました。その濁流はここより下流鴻巣市で決壊した濁流と合わさり、元荒川筋を流れ下りました。さらに、春日部で利根川からあふれ出た濁流と合流し、はるか東京まで達しました。
いたる所で堤防の決壊、崩壊が見られ、多数の死傷者や行方不明者を出しました。また、家屋の流出、倒壊、浸水など付近一帯に甚大な被害を与えました。
決壊の跡碑は、カスリーン台風の被害の大きさや、人々の苦悶の様子、また治水対策の重要性を後世に伝えるため、1999(平成11)年に設置されました。 」

1947年(昭和22)年10月米軍空撮 堤防決壊地点
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再びマンションに向かいます。
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10:21 マンションのところにある稲荷神社 ここが久下(くげ)の一里塚跡
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案内板(さすがに私が撮った写真では遠すぎて読めないので、ネットでお借りしてきました)
「 一里塚跡(久下新田)

江戸の日本橋を起点する中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久長安に命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方五間(9m四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり憩いの場所にもなった。

 柳樽には、

“くたびれた奴が見つける一里塚” 

という句もある。 

昭和60年11月17日

 熊谷市教育委員会 
熊谷市郷土文化会 」


10:22 馬頭観音
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天保12(1841)年建立。

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10:36 久下堤碑
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明治四十五年(1912)に建てられた碑で、碑面が磨耗して読めません。

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傍らのかるた形式の紹介文
「の 後の世までも 修堤記録 輪型の碑」

荷車の轍のことでしょうか?


【久下集落】

10:37 土手を離れ集落へ
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10:40 久下神社 隣は小学校
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11年前は小学校は入学式をやっていて、桜がきれいでした。たしかこの神社でお昼を食べたなあ。

今日はここで、コートを脱ぎ、帽子を被りました。

10:52 旧家 新井家
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白壁の土蔵が目につきます。

11:02 「此の街道 旧中山道」碑
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ここから道を間違えて、旧中山道は分岐の左側の道を行くのが正解でしたが、私は道なりの方に歩いていってしまい、実はこっちの道は近道のチョンボコース。歩く距離は短くなりましたが、幾つかの碑や、さっき見たのとはまた別の権八地蔵を見逃しました。


【ムサシトミヨ】

11:09 ムサシトミヨが生息する川
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案内板
「ここは、世界で熊谷市のみに生息するムサシトミヨがすんでいる川です。
川の汚れを少なくし、豊かな緑と清流を守るため皆さんのご協力をお願いします。
平成九年三月

埼玉県・埼玉県教育委員会
熊谷市熊谷市教育委員会
埼玉県熊谷土木事務所
熊谷市久下ムサシトミヨを守る会
ムサシトミヨ保全推進協議会 」

「サイエンスジャーナル」より

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絶滅を免れた「ムサシトミヨ」 
わずか400mの清流に住む魚

2007/12/19 00:06 0

 埼玉県の魚というと何でしょう?

 埼玉県には海はないのに、県の魚がある。それは淡水魚の「ムサシトミヨ」です。ムサシトミヨが熊谷市の天然記念物に指定されたのは、1984年8月1日のことでした。

 ムサシトミヨは、東京都と埼玉県を中心に生息していました。第二次世界大戦前には井の頭池善福寺池神田川石神井川・熊谷・本庄・川越など、荒川、多摩川系湧水に生息していたことがわかっています。 

 ムサシトミヨがこの世に出たのは、昭和8年(1933)のこと。井の頭公園で発見されたムサシトミヨが学会で報告されたのがはじめでした。この時はムサシトミヨという名前はなく、トミヨ属の一種ということでした。


 熊谷でも、昭和16年(1941)に発行された「熊谷郷土史会誌」で、郷土史家の小沢国平氏がトゲウオの生態研究や保護を訴えました。当時この辺りにはたくさんのムサシトミヨが生息していたようで、昭和17年(1942)に作られた「熊谷いろは歌留多」には「星川に珍魚トゲウオ」と歌われています。


 ムサシトミヨ絶滅の危機

 このムサシトミヨに最大の危機が訪れたのは昭和32年(1957)のことでした。この年の異常渇水で関東各地の湧き水がかれ、ムサシトミヨは行き場を失ってしまったのです。
しかし、熊谷は幸運にも熊谷の元荒川上流の水が枯れることはありませんでした。この年元荒川上流にニジマスなどの冷水性の魚の増殖を行う「埼玉県水産試験場熊谷支場」ができていたからです。

 熊谷支場では新鮮な地下水を大量に汲み上げ、その排水を元荒川に流したので、湧き水が枯れても川には清冽な水が流れつづけたのです。そして、この施設ができたためにこの辺りでは農薬の空中散布が回避され、このことがムサシトミヨが生き残った大きな要因となりました。 

 ムサシトミヨという名が付いたのは学会で発表されてから30年後の1963年(昭和38年)。国立博物館中村博士によってトゲウオ科トミヨ属の亜種として、ムサシトミヨという和名が与えられたのです。

ムサシトミヨの再発見

 この後、ムサシトミヨは既に絶滅したと一般的には思われていたのですが、1973年(昭和48年)2月7日一つの転機がやって来た。「絶滅したと思われていたムサシトミヨを日本野鳥の会の高校生3人が熊谷で発見した」と写真付きで新聞報道されたのです。

 当時ムサシトミヨの存在を知っていたのは、当時日本野鳥の会であり、近くに住んでいた田倉米蔵氏(現ムサシトミヨを守る会副会長)やその周辺の人ぐらいでした。新聞に報道されその知名度はぐんと高くなりました。

 ところが、「名前を多くの人に知ってもらえれば、保護される。」というわけにはいかなかったのです。「密猟を防がねば!」田倉氏はすぐにそう思い、野鳥の会としては畑違いの「魚」の保護活動が始まりました。

 まず行ったのは熊谷市へ保護を訴える陳情。しかし当時の行政は魚の生態もわからず、消極的で絶滅する可能性が強い物を天然記念物に指定することはできないという考えだったようです。

 野鳥の会では、生息地域に防護柵を築いたりしたが密猟は後を絶たなかった。といっても、当時はムサシトミヨ自体捕獲することを禁止されていたわけでなく、元荒川も保護区域には指定されていなかった。しかし、田倉氏を中心に近くに住んでいる人々で毎日パトロールを行い、魚を捕りに来た人々に説得を繰り返したそうです


 ムサシトミヨの生息地が天然記念物に

 熊谷市が重い腰を上げたのは、最初の陳情から12年後の1984年のことでした。
熊谷市はこの年の8月1日(水の日)にムサシトミヨの生息域を市の天然記念物に指定しました。ムサシトミヨの価値を知る、魚類学者達が埼玉県や熊谷市、そして出版物などでムサシトミヨの保護を訴えたのです。

 そしてその翌年、隣接する羽生市に「県営さいたま水族館」がオープンし、ムサシトミヨの本格的な研究が行われました。ムサシトミヨの飼育は専門家の手でも難しかったようで特に附加は何度も失敗したそうです。

 初めは元荒川から毎月1トンもの水を運んでいたのですが、地下水を汲み上げ紫外線殺菌装置を付けるなど様々な工夫がされました。こうしてムサシトミヨの飼育は成功し、万が一のことが元荒川に起こっても種の絶滅という危機は脱しました。

 ムサシトミヨは、まだ種として認められた魚ではないため、ムサシトミヨ自体は天然記念物に指定されていません。ムサシトミヨの生息する地域約400mが天然記念物に指定されているのです。したがって、この区域を少しでも出るとその保護活動が難しくなってしまうのです。

 そしてそこには、普通の住宅が立ち並んでいます。元荒川上流域に生活廃水を流さないようにすることと、そこに住む人々の協力が必要となっています。

 1989年には環境庁からムサシトミヨ生息地が「ふるさといきものの里」に指定され、またこの年レッドデーターブックにムサシトミヨが登場しました。現在、自然の生物や環境は、多くの人たちの努力で保護されていることを忘れてはいけません。(参考HP 360net・熊谷市


 ムサシトミヨとは?

 ムサシトミヨはトゲウオ科の小さな魚。大人になっても体長は6cmほど。

 冷たく澄んだ水の中でしか生きて行くことができない、大変デリケートな魚。産卵期になると雄が水草を集めて小鳥のような巣を作り、メスを誘って産卵します。

 世界中で見ても、トゲウオ科の魚は北半球の亜寒帯を中心に十数種類しかいない魚で、特にムサシトミヨは熊谷の元荒川にしか生息していません。

 そのため、詳しい生態が明らかとなってきたのも最近のことで、それまでは見向きもされず多くの生息地では絶えてしまいました。

 熊谷では、偶然と多くの人々の保護増殖活動により生き延びることができました。

 熊谷駅の南東部を流れる元荒川源流部は、世界で熊谷市にしか生息していない希少魚ムサシトミヨが生息しています。この源流部400メートルは、平成3年に県の天然記念物に指定されています。また、環境庁からは、「ふるさといきものの里」として認定されています。

 川は、水草がゆらめく清流で、住宅地をぬって大きく曲がりながらさらさらと流れています。その様子は、まるで童謡の「春の小川」を思い出させます。

 ムサシトミヨは、体にトゲをもつ体長が3〜6センチメートルの小さな魚で、小鳥のように巣をつくり、オスが子育てをする珍しい魚です。また、絶滅の危険に瀕している絶滅危惧種として環境庁編のレッドデータブックにも掲載されていて、「県の魚」にも選定されています。

 このムサシトミヨは、元荒川の水源がある「熊谷市ムサシトミヨ保護センター」において保護のための研究が県により行われていて、同センターの展示室では実際にムサシトミヨが泳ぐ姿を見ることができます(見学については社会教育課までご連絡ください)。


 ムサシトミヨの一生

 生まれたばかりのムサシトミヨの稚魚は、水草の中に身を潜めプランクトンなどを食べて育ちます。

 半年ほどで体長が3cm程になり、ミズムシ・ユスリカの幼虫・イトミミズなどを活発に動き回って捕食するようになります。

 産卵は1月下旬から9月といわれていますが、最も多いのは5月下旬から6月の初旬。水草の茎に水草アオミドロ等をかためて直径3cmほどでピンポン玉のような巣をオスが作ります。

 オスは巣が出来上がると、メスを誘い産卵させ卵がふ化するまで、巣を守ります。 卵の大きさは1mmほど。また、この時新鮮な水を巣の中に送り込むのも大きな仕事です。オスは稚魚が巣立つと、多くの場合力尽きて死んでしまうようです

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この文章を読んで驚いたのは、世界でここにしかいない貴重なムサシトミヨ自体が天然記念物にしていされているのではなく、ムサシトミヨの生息地である川が天然記念物になっているということ。

ムサシトミヨがまだ種としてみとめられていないから、天然記念物に指定されていないそうです。

400メートルの川が天然記念物!

いずれにせよ、大切に守りたいですね。

熊谷市ホームページより・ムサシトミヨ
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11:18 再び、ムサシトミヨの生息地
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案内板
「ここは、世界で熊谷市のみに生息するムサシトミヨがすんでいる川です。
許可を得ないで、動物・植物を採捕することは禁じられています。
川の汚れを少なくし、豊かな緑と清流を守るため皆さんのご協力をお願いします。
平成八年三月
熊谷市熊谷市教育委員会
環境庁
埼玉中央漁業協同組合
熊谷市ムサシトミヨを守る会
ムサシトミヨ保全推進協議会 」
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かるた看板
「 け 『県の魚』
ムサシトミヨの
棲む郷土 」

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案内板
「 『みなさんへ』

この水路に生えている水草や藻は
ムサシトミヨの生息に必要です。
取り過ぎないようにしましょう。

ムサシトミヨ保全推進協議会
久下熊久自治会 」

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案内板
「 埼玉県指定天然記念物
元荒川ムサシトミヨ生息地

指定年月日 平成三年三月十五日
所在地 熊谷市大字久下二一二五番地先
〜二〇六四番地先

ムサシトミヨは、トゲ魚科に属する淡水魚です。以前は埼玉県の熊谷市及び本庄市川越市、東京都西部などに生息していましたが、環境が悪化し、川が汚されてしまったので、現在では、世界で熊谷市にしか見られなくなってしまいました。
体長四〜六センチメートルで、背ビレ、腹ビレ及び尻ビレに棘条(きょくじょう)と呼ばれるトゲがあります。体には鱗(うろこ)がなく、体色はくすんだ暗緑色です。
冷たくきれいなわき水を水源とする細い川で、水草が繁茂(はんも)しているところに生活します。水温は十〜十八度ぐらいが適温です。産卵期は三月〜十月で、雄が水草の根などを使ってピンポン玉ぐらいの大きさの巣を作り、稚魚が巣立つまで巣と子供を守ります。そして、たいてい一年で生涯を終えてしまいます。
ムサシトミヨは貴重な魚であり、また、絶滅寸前の状態なので、平成三年三月十五日に埼玉県指定天然記念物に指定され、平成三年十一月十四日の県民の日には、清流のシンボルとして県の魚に選定されました。
私たちの手で、この貴重な魚を守り育てていきましょう。

平成四年一月

埼玉県教育委員会
熊谷市教育委員会
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【久下熊久から八丁へ】

ムサシトミヨの絵に「くげ ゆうきゅう」と書いてあったのを、最初は久下 悠久 かと思いました。
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しかし、そうではなく、この辺りの地名が「久下熊久」 (くげゆうきゅう)というんですね。

熊久橋という橋がありますが、この辺りが久下直光と熊谷直実との所領争いの境界線で、熊久橋は、両名の一字をとったものだそうです。
 
ガイド本では、熊久橋の先で右斜めに入っていく目印として電器店が書いてありましたが、電器店なくなっていて、クリーニング屋さんになっていました。
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裏道に入り、ガイド本に従って住宅地の中を進みます。
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11:29 お地蔵さま
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11:33 八丁の一里塚跡
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案内板
「 八丁の一里塚跡

久下新田の一里塚から、ここまで一里ある。いま英泉描くところの『八丁堤の景』という浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。

昭和六十年十一月十七日

熊谷市教育委員会
熊谷市郷土文化会 」

渓斎英泉の八丁堤の景
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二度目の中山道4日目の3(熊谷宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/04/30/062516