紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道4日目の1(鴻巣宿後半)

2度目の中山道4日目の1
2020年3月9日(月)の1

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鴻巣駅からの出発】

5:00 起床

前夜、北本のホテルに泊まりました。

5:40 持参のパンで朝食。

6:00過ぎにチェックアウト。

6:28 北本駅

6:32 鴻巣駅

6:44 鴻巣駅出発。
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6:53 田沼家の蔵
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「埼玉のすまい」サイトより

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鴻神社近くの中山道に面した田沼家。店は明治二十(1887)年頃の築か。それに江戸期の脇蔵。ともに二階建て。奥に深い典型的な町家である。店、帳場、土間と時代と風格を伝える。土間のたたき、欅の上がり枢、上を見上げれ ば重厚な梁、二階床板も重厚。押し入れは杉の一枚板。桟の美しい障子の奥には離れとの間に光を導き入れる中庭。廊下をぐるりと回す賓客用である大正期築の離れは天井も高い。外枠が漆塗りの障子に三方を囲まれた床の間の書院、欄間も美しい。四万十川から運んだという石が奥の庭に。青海波(せいがいは)の棟が美しく空に映える鴻巣宿のランドマークである。

(広報誌 スマイル通信 Vol.55 2014年3月発行)

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【鴻神社】

6:55 鴻神社
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案内板
鴻巣市指定古文書

香具拾三組御定免
議定書
商人講中連名帳並焼印 
(昭和34年9月指定)

 香具仲間は露天商、大道呼び売り商人、見世物等を行う仲間を云い、江戸時代には町奉行の支配のもとに行われ、従って奉行よりその定め書きが出されている。香具拾三組御定免は大岡越前守の名を以って発せられた定め書であり、この定めに従って鴻巣商人仲間は、仲間規約即ち議定書を作成して、加入者の自主的統制を計っている。議定書の末尾には享保20年卯ノ冬の記年がある。

 江戸末期に至って鴻巣宿の商業は隆盛をきわめたものと見え、豪商・紳商の話が伝えられている。商人仲間の数も大変多くなり、鴻巣講中連盟帳に名を連ねれたもの280名の多数に及び、仲間鑑札を発行して年行事がこれを監督した。
 鉄製焼印は木製仲間鑑札に使用したもので三箇ある。

昭和六十二年三月
鴻巣市教育委員会

文化財を大切にしましょう。 」

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案内板
「 鴻神社御由緒
 鴻巣市本宮町一‐九
御縁起(歴史)
 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原あたりに居住したとされ、また一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心)こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名国府台(こうのだい)、国府津(こうづ)などからも類推されます。
国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は国府の宮(こうのみや)であったのではないでしょうか。

御祭神
 ・素盞嗚尊 ・伊弉諾命 ・伊弉冊命
 ・速玉男命 ・事解男命 ・別雷命

御祭日
 ・歳旦祭(一月日)       
・七五三寿祭(十一月)
 ・初午歳(三月午)       
新嘗祭(十一月二十三日)
 ・水無月大祓(六月三日)   
 ・酉の市祭(十二月四日)
 ・初山祭(七月一日)      
 ・冬至祭(十二月二十二日)
 ・こうのす夏祭り(七月第二日曜) 
・大祓式(十二月三十日)
  (須賀神社祭)
 ・例大祭(十月十四日)
  (おおとり祭) 」


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案内板

「 鴻神社

 鴻神社は明治六年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といった。三社とは次の神社である。

氷川社…鴻巣宿字本宮三九〇番地(宮地五丁目)
 鴻ノ宮氷川大明神あるいは端ノ宮(ハジノミヤ・ハタノミヤ)ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であった。氷川社の神額は現在も鴻神社に残されている。

  熊野社…鴻巣宿字本宮三八九番地(宮地一丁目)
 熊野権現と称していた古社で氷川明神を端ノ宮と称したのに対し中ノ宮と呼んだ。合祀前は社地三〇〇〇坪を有し、巨木におおわれた森林であったという。

  竹ノ森雷電社…鴻巣宿字東側二二八三番地(現在地)
 雷電社は現在地に鎮座していたもので、「竹ノ森」の名があるように付近には竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、天明期には遍照寺(常勝寺末)持となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社であった。

 現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治六年九月二十四日に社号を鴻三社と定めた。
 明治三十五年から四十年にかけてはさらに鴻巣町内に所在した日枝神社東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して明治四十年四月八日、社号を鴻神社と改めて現在に至っている。
 ここには鴻巣市文化財に指定されている『香具拾三組御定免』『議定書』『商人講中連名帳並焼印』等貴重な史料が残されている。
 また、ここ鴻神社では十月十四日の例大祭のほか、ゑんぎ市や酉の市、夏まつりなど様々な行事がおこなわれている。

 昭和六十三年三月 」

元々は国府の「こう」だったのが、後からコウノトリ伝説が付け加えられたようですね。

11年前に初めて中山道を歩いた時は、鴻神社は桜が咲いていました。11年前の写真です。
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【池元院から白山神社

7:09 池元院(ちげんいん)
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「埼玉宗教名鑑」による池元院の縁起

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池元院(日蓮宗

当院は宝暦8年(1758年)、妙福寺第19世の日正上人の創立であり、妙福寺の塔頭寺院である。当時は観世音菩薩を本尊とし、60年目毎に開帳を執行し、近隣より多数の参詣者が集り賑いを呈していた。
昭和17年2月15日、宗教団体法第32条に基づき、寺院規則を制定。日蓮上人尊定の大曼荼羅を本尊とした、同法により、鴻巣町大字鴻巣2058の妙見堂を飛地境内佛堂として編入した。当佛堂は文政4年(1821年)に、尼僧清水妙宣の建立で、朝日妙見菩薩をまつっていた。大正8年堂宇を新築し、以来祖師堂と改め、町内信徒の信仰を増進した。
第6世穐山海信、当院の住職を継承すると、信徒より寺号公称の要望起り、昭和27年宗教法人法施行されたのに際して、寺号を現在地の祖師堂に移し、妙見山池元院と号し、旧池元院の堂宇を観音堂として飛地境内佛堂の認証を得た。以来、境内を拡張整備し、再興を成満し、鬼子母神堂を建立、庫裡の増築により面目を一新し、昭和38年、54才にして入寂す。
昭和39年現住職第17世を継承し、庫裡の改修及び生誕750年記念事業として、檀信徒の協力を得て、本堂の屋根替と内陣の改装を完成し、現在に至っている。(「埼玉宗教名鑑」より)

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鬼子母神
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蘭渓堂碑
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案内板
「 蘭渓堂碑
鴻巣市指定歴史資料 昭和四十年六月十四日指定
蘭渓堂如水は本名を北岡仙左衛門俊之といい、文化十二年北岡遣左衛門の次男として生まれた。
幼少のころから学問を好み、書の道にすぐれ、一二歳で同輩に教え、文政十三年には十五歳にして早くも読み書きの道場を開いたという。
以後、四五年間にわたり書道教授として、鴻巣宿は勿論田間宮・箕田その他の地区の子弟の指導にあたり、その数は一一五○名にものぼったという。
まさに当地の児童教育の第一人者であった。 明治六年の学制発布による公立小学校の開校に伴って補助教員として世話掛りの任についたが、病気のために翌七年一月に職を辞した。 明治八年七月六日逝去。享年六〇歳であった。法名教光西征清居士。北岡家墓地は、市内大間の久保寺にある。 多数の門弟たちが、郷土の子弟教育に生涯を尽くした如水翁の功績をたたえるため、明治十四年八月に筆塚として建立したのがこの蘭渓堂碑である。 この妙見山池元院境内建立されたのは、翁の住まいがあった町にちなんだためである。

平成二十四年二月
鴻巣市教育委員会

7:12 分岐 斜め左へ
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中山道 こうのす 道標」

(矢印で 斜め左へ)

熊谷宿へ 三里三十二町(約十五粁)

三条大橋へ 百二十三里六町(約四百八十四粁)
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7:22 白山神社
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境内には、寛文六年(1666)建立の庚申塔等の石仏石塔群があります。
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【箕田観音堂

7:36 箕田観音堂
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門も塀もなく、奥に長く広がる敷地の観音堂でびっくりしました。

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案内板
観音堂新築記念碑

渡辺綱守本尊吹張山観音由来

当箕田観世音は、今を去る一千有余年前、平安時代中期の武将渡辺綱公を開祖とする由緒ある馬頭観世音である。この馬頭観世音は六孫王(清和天皇第六皇子の子)と言われた源経基公が、戦いの折に兜に頂いて出陣した一寸八分(約33㎜)の尊像である。承平の頃、経基公が大間の箕田城に在城の折、ある夜不思議な霊夢をみて、箕田の源仕公(渡辺綱の祖父)に譲り下された。箕田の仕公は、周囲の征夷を行った功績により武蔵守に任ぜられたが、これは他ならぬ観世音の『畏怖軍陣中 念被観音力 衆怨悉退散』のご加護のたまものである。それより、源仕公から源充公へ、源充公から渡辺公にと相伝えられ渡辺綱公がこの地に安置されたものである。時、正に永延元年(987)のことであった。それゆえに当観世音を『渡辺綱守本尊』と称し奉った。また、当観世音は別当真言宗吹張山平等寺でもある。この寺は宇治の『平等院』をここに移し『吹張山圓通寺殿』の別所と称したものである。当観音堂舎は、従来は大堂であったが明治五年二月に日の火災により焼失し、同年直ちに同地内の別当平等寺を引き直し本堂として修復工事を行ったものである。また従来より言い伝えられていた一寸八分の尊像もこのたびの本堂解体工事の際に無事見出され、百数十年ぶりにその御姿を現しになった。更に当観世音は忍領三十三観音霊場の七番観音にあたり、元禄の頃より巡礼者も多く賑わったと言い伝えられている。数百有余年の風雪に耐えた本堂も老巧化が進み、この度『開山一千年の記念事業』として、信徒の総意に基づきここに本堂の改築を行ったものである。この大事業が無事完成を見たのも、観世音菩薩の広大無辺なるご加護と共に、信徒各位の一層のご多幸、御繁栄を至心に祈願して、これを永代に残すものである。

平成三年(一九九一年)二月吉日 」


7:49 龍昌寺
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【氷川八幡と箕田源氏】

7:52 氷川八幡
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案内板
「 氷川八幡社と箕田源氏

氷川八幡社は、明治六年に箕田の鎮守であった八幡社と同じ村内の氷川社を合祀して現在の社名となった。
八幡社は、藤原純友(すみとも)の乱を鎮めた源仕(みなもとのつこう)が京都の石清水八幡宮から分霊を勧請(かんじょう 神社の祭り神を分けて別の場所に祭ること)し、氷川社は、六孫王源経基(または源仕とも)が承平元年(九三ー)に勧請したとそれぞれ伝えられている。
また、八幡田の地名の由来は、源仕の孫である渡辺綱が神田を八幡社の為に奉納したことによる。
箕田地域は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏発祥の地で、源仕、源宛(みなもとのあたる)、渡辺綱の三代はこの地を拠点として歴史に名を残す活躍をしたのである。

嵯峨源氏系図

嵯峨天皇ー武蔵守 源 信(後左大臣)ー保

┗ー相模守 源 融(後左大臣)ー昇ー
武蔵守 仕ー 箕田源次 宛ー源次別当

源 融ー副ー武蔵守 添


○源 仕… 源仕は、嵯峨天皇の第八皇子河原左大臣源融(みなもとのとおる 嵯峨源氏の祖)の孫で、寛平三年(八九一)に生まれた。長じて武蔵国箕田郷と呼ばれたこの地に居を構えた。
周辺の土地を開墾し、家の子・郎党を養い、次第に力を蓄えていった。智勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平・天慶の乱に功を立てて従五位上武蔵守となった。
天慶五年(九四二)没。享年五二歳。


○源 宛…源宛は、仕の子で弓馬の道にすぐれ、天慶の乱では仕に従って西国に赴き武功を立てたが、天暦七年(九五三)に二一歳の若さで没した。宛の武勇は広く知られており、その様子は『今昔物図集』に平良文(たいらのよしふみ)との一騎打ちが説話として残されている。


○渡辺 綱 … 渡辺綱は、源宛の長子として天暦七年(九五三)に箕田に生まれた。幼くして両親を失ったため、従母である多田満仲の娘に引き取られた。摂津国渡辺庄で育ったことから渡辺姓を名乗った。幼少より勇名を馳せ、長じては源頼光に仕え、世に頼光四天王の第一と称され剛勇で知られた。
後に丹後守に任ぜられた。万寿二年(一〇二五)二月十五日没。享年七三歳。八幡社右手奥にある宝持寺には綱の位牌が残されている。法名を『美源院殿大総英綱大禅定門』という。
また、次のような辞世の句が伝えられている。

世を経ても わけこし草のゆかりあらば
あとをたつねよ むさしののはら


【箕田館跡】 源仕を始めとする源家三代の館は氷川八幡社の北側にあったと伝えられ、現在でも周辺は殿山と呼ばれている。しかし、かつてここに館があったことを偲ばせるものは見当たらない。

平成二十四年二月
鴻巣市教育委員会

文化財を大切にしましょう 」

裏の宝持寺でトイレを借りました。
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宝持寺は、およそ1000年前に渡辺綱によって建立されたと伝えられています。

8:06 中宿橋
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【箕田追分】

8:11 箕田追分
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案内板
「 箕田源氏ゆかりの地

 平安時代も9世期後半頃になると地方の政治が乱れ始め、武蔵国では群盗がはびこり、治安が悪化してきました。
西暦九一九年、前(さき)の武蔵権介(ごんのすけ)の任にあった源仕(任)は、官物を奪って官舎を焼きはらい、国府(国ごとに置かれた役所)を襲う事件を起こしました。
源仕は昇(のぼる 嵯峨天皇の孫)の子で、任期終了後も帰京せずに、箕田に土着して豪族となり、その子充(みつる 宛)は箕田源氏の祖といわれています。著名な説話集『今昔物語集』には、箕田に居をかまえていた源充と、村岡(熊谷市 )に居を構えていた平良文とが、合戦におよんだことが述べられています。源頼光の四天王として知られている渡辺綱は充の子にあたります。
このほかにも、仕が勧請したと伝えられる八幡社、綱ゆかりの寺院など、箕田には源氏にちなむ伝承が数多く残されています。
やがて江戸時代になると、五街道の一つである中山道が、現在の鴻巣市域をほぼ南北に通り、中山道東海道と共に江戸と京都・大阪とを結ぶ重要な幹線路であったから、整備も行き届いていました。中山道を往来する主な通行は、参勤交代のために隊列を組んだ大名行列や公用の武士、荷物を運ぶ人足や馬、神社参詣の旅人などがありました。
朝、 江戸を出発した旅人は、その日の夕方には鴻巣宿に着き、旅籠屋に宿を取って、翌朝、再び中山道を西に向かって旅立ちます。鴻巣宿からほぼ一里ほど行くと、箕田村の追分あたりに着き、ひと休みすることもあります。追分からは、北に向かって、三ツ木・川面を経て、忍おし 行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、ここを箕田村字追分というようになりました。
 鴻巣宿から、熊谷宿までは、四里六丁四十間(約十六キロメートル)の長い距離があり、途中の箕田、吹上、久下村の三ヶ所には、立場と称される休憩所がありました。立場とは立場茶屋 ともいい、宿場と宿場との間にあって、そこで旅人がワラジを買い替えたり、お茶を飲みダンゴを食べるなど、休息するところです。箕田の追分には立場があったので、旅人の休息はもちろん、近村から神社参詣などで旅立つ者を見送る人々も、ここでしばしの別れを惜しんだのです 。
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上の図(『中山道分間延絵図』)は十九世紀初頭、幕府によって作成された中山道絵図のうち、宮前、箕田、中井村あたりの部分図です。道に面する家並みや寺院、中山道から分かれる道などが描かれ、当時の中山道とその沿道のようすを窺い知ることができます。
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左上の図は江戸時代の後期、根本山(群馬県桐生市)に参詣する人びとのために発行された旅行案内の一場面で、箕田の追分が描写されています。そこには中山道と館林道の道しるべ(道標)や冨士屋という立場、さらに追分に造立されている地蔵菩薩などを見ることができます。
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左下の図は、明治元年に合祀された氷川八幡神社を描いたもので、境には渡辺社や箕田源氏の事跡を刻んだ箕田碑なども見えます。 」

8:12 地蔵堂 庚申塔
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この地蔵立像が安置された地蔵堂と、その傍らの庚申塔の近くに、立場茶屋冨士屋があったそうです。
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【前砂村と吹上富士】

8:25 前砂村標石
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「 江戸より十五里余 前砂村」

「池田英泉の鴻巣吹上富士はこのあたりで描かれた」

8:28 前砂の一里塚跡
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案内板
「 前砂の一里塚跡

江戸時代の初期、参勤を契機として街道が整備され、主な街道には距離の目安として一里塚が築かれた。慶長見聞集によると、中山道の一里塚は慶長九(1604)年に築かれた。
一里塚は、江戸日本橋を起点として一里(約4km)ごとに、街道両側に五間(約9m)四方、高さ約十尺(約3m)の盛土をし、上部に榎や松を植樹したもので、馬・籠の駄賃や道程の目安になるとともに、旅人の憩いの場でもあった。
日本橋から十三里目の、ここ前砂の一里塚は、文化年間(1804〜1818)完成の中山道分間延絵図によれば、街道の両側(現前砂681番地に西塚、71番地に東塚)に、榎の茂った塚が描かれているが、現在は両塚とも残っていない。
ちなみに、鴻巣市域では、十一里目の馬室原の一里塚(西塚が現存、県指定文化財)十二里目の箕田の一里塚が確認されている。
なお、次の一里塚は、間の宿吹上の町並みを過ぎ、前原の権八地蔵尊の先、久下の長土手にある。

日本橋からの距離等については、当協会の見解である。

平成二十八年十月

一般財団法人鴻巣市観光協会

8:34 「中山道 こうのす ふきあげ」道標
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「熊谷宿へ二里二十二町
三条大橋へ百二十一里三十二町」

「桶川宿へ三里十四町
江戸日本橋へ十三里二十八町」

8:45 中山道第4踏切
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8:46 「中山道間の宿 吹上」標石
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熊谷宿へ、京三条大橋へ、桶川宿へ、江戸日本橋へ、それぞれの距離と、線路を渡って、左斜めへの進み方の地図にもなっています。

8:50 妙徳地蔵尊縁起
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碑文を読もうと思いましたが、草が被さって読めないところもあるので、ガイド本(山と渓谷社『ちゃんと歩ける中山道六十九次』)の解説を引用します。

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眼病に霊験あらたか。ある娘が眼病を患うと夢枕に母からのお告げがあり六十六部となって旅立ち全快したものの盗賊に殺害されてしまった。無念から大蛇になるも得道成仏し、妙徳地蔵尊として後世に仕えることを約したという

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8:59 「中山道 至熊谷宿」道標
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矢印に従って斜め左へ


【吹上神社と東曜寺の有縁無縁一切精霊供養塔】

9:02 吹上神社
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案内板
「 吹上神社
御祭神
 大山咋命  別名山末之大主神と言い比叡山に坐す建国に功労のあった神
 倉稲魂命  食物を主宰する神
 素盞嗚尊  信性勇猛な又災厄祓除の神
 大物主命  大國主命の和魂称し奉る御名
 菅原道真公 学問の神
由緒
 當日枝社は宝暦六年七月火災により焼失すその後再建年月不詳
 明治六年四月村社に列せらる
 同四十年四月十六日大字中耕地稲荷社同境内社八坂社字下耕地氷川社同境内社琴平社天神社の五社を合祀す
 当社は近江國大津市坂本の日枝大社(山王社)より神霊を分ち奉持して参りましたが明治四十年右五社を合せ吹上神社と改称す 」
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案内板
「 吹上神社 御由緒
 鴻巣市吹上本町四‐一四‐二六
□御縁起(歴史)
 吹上は、北足立郡の最北端に位置し、その地名については、風で砂が吹き上げるところから生じたものとの説がある。古くからの集落は中山道に沿って続いており、江戸時代には中山道の熊谷・鴻巣の両宿場の立場が置かれ、更にその地内で中山道日光脇往還が交わることから、交通の要衝として繁栄した。
 『風土記稿』吹上村の項には「山王社 村内上分の鎮守とす、東曜寺持」「氷川社 小名遠所の鎮守なり、持宝院持」「稲荷社 下宿の鎮守なり、東曜寺持」と、鎮守が三社記されている。このように、江戸時代にあっては、村内を三分し、各々で鎮守を祀っていたが、最も規模が大きかったことから社格制定に際しては日枝社(神仏分離により山王社が改称)が村社となり、他の二社は無格社にとどまった。更に、政府の合祀政策によって明治四十年四月十六日付で、氷川社と稲荷社は日枝社に合祀され、これに伴い、日枝社は村名を採って吹上神社と改称した。年配の人が当社を「山王様」と呼ぶのはこうした経緯によるものである。
 ちなみに、氷川社の跡地は本町二丁目の遠所橋のすぐ南に、稲荷社の跡地は鎌塚二丁目の新宿橋のたもとの所にあり、いずれも祠が建てられている。また、日枝社については、『明細帳』に「宝暦六年(一七五六)七月火災焼失す其後創立年月不詳」との記録が載る。
□御祭神と御神徳
 ・大山咋命・・・五穀豊穣、健康良運
□御祭日
 ・元旦祭(一月一日)  
 ・祈念祭(二月下旬の日曜日)
 ・二ノ午祭(旧暦の二月二ノ午) 
・夏祭り(七月二十七・二十八日)
 ・例祭(九月十五日)    
 ・新嘗祭(十一月二十三日) 」


9:04 吹上神社裏手の有縁無縁一切精霊
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多分、東曜寺境内にあるものだと思います。
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花粉の影響で目が痛くなり、コンタクトレンズを洗いたいので、吹上神社の境内で水道を探したのですが見当たらず、さらに裏に行ったらお墓が見えて、お墓なら墓参りの人が使う水道があるのでは、と行ってみたら、水道があって目を洗うことが出来ました。

その時気になったのが、有縁無縁一切精霊供養塔です。これは一体何なんだろう。

佐藤石材工業ブログより

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寺院墓地や公営墓地の中に、今とは違う古いお墓がいくつも並んでいる場所を見かけたことがありませんか?
そのようなお墓は「有縁無縁供養塔」と言い、私たちの現在の暮らしの基礎を築いた先住者たちのお墓なのです。
今回は有縁無縁供養塔とは何か、いったい何のために建てられているのかについてご紹介します。

有縁無縁供養塔とは、現在お墓の管理者(施主)が不明のお墓を集めて供養をしている場所に建てられた供養塔です。
古いお墓の中には、何らかの理由で継承者がおらず無縁墓となってしまったものもあります。
どこの誰が埋葬されているのかわからないお墓も含めて、それらを一か所にまとめて供養するために建てられたのが「有縁無縁供養塔」なのです。

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http://hourakuji.blog115.fc2.com/(住職さんの想い、本音などのブログ) より

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お盆供養のお経のひとつ

「南無有縁無縁一切精霊(ナムウエンムエンイッサイショウリョウ」
 自分との具体的な縁のあるなしにかかわらず、相手が餓鬼界や地獄界などのどこにおられるかにかかわらず尊び、供養します。

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二度目の中山道4日目の2(間の宿吹上から熊谷宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/04/27/163255


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003