6月18日(火)の1
【4度目の出逢いの宿場】
10年目、二度目の東海道五十三次歩きは、今まで日本橋から順番に歩いてきました。
10年前は、箱根越えを長女と一緒に歩いたり、鈴鹿越えを長女と次女と三人で歩いたのですが、同行者の都合に合わせて日程を組んだため、歩く順番が前後したりしました。
今回はなるべく順番通りに、と、今まで歩いてきましたが、遂に初めてワープしました。
今まで、鈴鹿峠手前の関宿まで歩きました。
6月中に鈴鹿越えをして、土山〜水口まで歩き、7月に水口〜石部〜草津〜大津〜京都三条大橋と歩く予定ですが、どうしても最後の2日ぐらい、日程が少々きつい。
今週の火曜日はゴスペルレッスンがないので、前夜発夜行バス、18日(火)に草津〜大津、約15kmだけ先に歩いておくと、東海道五十三次ラストスパートに余裕が出来る。
余力を残して京都入りしたいなあ。
2009年3月の東海道歩きも、2010年3月の中山道歩きも、ラストの前の日の、最後の草津から大津がきつかった。
でもその分、最終日は大津から京都三条大橋まで10.7kmで、昼にはゴールして、京都でおいしいランチを食べました。
月曜朝になって、
「そうだ!草津に行こう!」
と、行き帰りの夜行バスが取れるかどうか調べてみたら、とれました!
そして、今朝、18日(火)朝7:00頃、草津駅に降り立ちました。
シャッター押した瞬間に自転車のお姉さんの頭がちょっと入ってしまいましたが。
この絵手紙は、2009年3月25日に初めて草津追分道標を見た時の絵。
中山道を歩いたとき、木曽路まではブログも書いていたのですが、その後芝居の稽古などで忙しくなってしまい、稽古も仕事もない日にちょこちょこ中山道の続きを歩いていたのですが、ブログを書かなかったために、いつどこを歩いたのか覚えていない。
2010年3月3日に京都三条大橋にゴールしたことはブログに書いています。3月1日に舞台が終わったので、早速歩きに行ったのです。
しかし、美濃路以降の記憶がないため、2016年夏に、青春18きっぷを使って美濃太田の太田宿から、二度目の中山道を歩き始めました。
こちらの絵手紙は、その二度目の中山道歩きで、三度目の草津追分に立った時の絵手紙です。
【「時の旅人」】
草津追分けの目と鼻の先の公民館前に、不思議な彫刻?があります。
「時の旅人」というモニュメントです。
二度目の中山道の2016年9月6日のブログ
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中山道と東海道が出会う草津追分けの道を挟んだ隣に公民館があり、その前に「時の旅人」があります。
ネットで拾った解説です。
「丁度ここは東海道と中山道が交わり、多くの旅人でにぎわっていた事がテーマとなって、鈴木典明さんと云う方が平成10年に制作したそうで作品名「時の旅人」で土台部分に明記されていた。
過去から現在に旅を続け、人が行き交う時間性を表現しているのだそうです。
素材はステンレスの棒を集積・交錯させて、時間と人の軌跡を表現しているとのこと。」
過去のしがらみに悩みながらも、それを振り払って未来へと進もうとする強さと、そんな人間が捨てていく過去の悲しさも感じました。
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【もうひとつの田中本陣跡】
田中七左衛門本陣跡。
一部昔のままの遺構が残っていて、公開されています。国指定史跡。
初めて草津に来た時は、近江の読書姫、紙魚子さんと待ち合わせをして、一緒に草津本陣を見学しました。
今日は定休日のようです。多分以前は月曜定休だったのが、あまりにハッピーマンデーが多いため、火曜定休になったのではないかと。
さて、草津にはこの田中七左衛門本陣の他に、もう一軒、田中九蔵本陣がありました。
田中九蔵本陣は、明治になって本陣が廃止になると、草津小学校の前身、知新学校が置かれました。
「くさつ情報ネット」より
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篤姫が 13代将軍家定に嫁ぐべく薩摩を発ったのは、ペリー来航(嘉永6年6月)の2カ月半後の8月21日。 10月2日近衛家に参殿、6日伏見出立、江戸到着は10月29日でした。伏見~草津は一日の距離、あるいは国史跡草津宿本陣(七左衛門本陣)の大福帳に記載されているのでは…と調べていただいたところ、嘉永6年(1853)の大福帳に
10月6日 伏見立
薩州御姫君様 御泊 九蔵
と記載されていました。篤姫(19歳)は草津宿に泊まっていたのです。
九蔵とは、江戸時代2軒あった本陣の1軒、田中九蔵本陣。間口は現在の脇本陣の隣から「京八」さんまで、奥行きは一筋東の通りまでありました。七左衛門本陣の大福帳は他家への宿泊や通行も記録されていて貴重な資料となっています。
本陣 波乱の人生
九蔵本陣は、後に皇女和宮の夫君家茂(上洛時)や、かつての許婚有栖川宮熾仁親王(東征時)も利用しています。明治3年(1870)の本陣廃止後、この地に草津小学校の前身「知新学校」が建てられました。
家定は、天保2年(1841)に迎えた正室鷹司家の有姫が亡くなったため、嘉永2年(1849)一条家の寿明姫を正室に迎えますが僅か6カ月余り後に亡くなります。
篤姫を三度目の正室への話は、虚弱な公家の姫君より武家の娘をとの期待と養父斉彬の幕府内での力も影響したと思われます。有姫、寿明姫はともに七左衛門本陣に泊まっていて、寿明姫お泊りに際しては本陣の屋敷絵図や草津川仮橋の図なども残り、準備の大変さが偲ばれます。
篤姫の婚儀は、ペリーの再来、安政地震、御所火災などで遅れ、3年後の安政3年(1856)に行われました。1年7カ月後家定死去。篤姫は天璋院と称し大奥の責任者となっていきます。
後に 11代家茂に降嫁した皇女和宮とは様々な確執の末、幕府崩壊に際し二人して徳川家存続に向け、敵となる実家(薩摩藩、朝廷)へ働きかけるのでした。二人は、徳川家存続・江戸無血開城の陰の功労者とされています。
追分道標 歴史の足跡をたどって
本陣大福帳には皇女和宮(静寛院宮)も文久元年(1861)の降嫁、明治2年(1869)の帰京、明治7年(1874)の東京行が記載されていて、明治7年の記載は180冊ある大福帳最後の1ページとして知られます。また、慶応4年(1868)徳川家存続の宮の手紙を朝廷に届けるため動乱の東海道を上下した土御門藤子も“御上臈 お婦知様”と大福帳に4度記載されているのが確認されています。
(石田はま子)
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【夢街道ゆめ本陣】
ゆめ本陣という休憩所があります。
前回の東海道歩きでも、中山道を歩いていた時もゆめ本陣で休憩をさせていただきました。
しかし、本日はまだ7:40で、開館の9:30
まで間があるので、残念ながら素通りです。
10年前のブログ
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「 くさつ夢本陣」という無料休憩所があったので入りました。
コミュニティーFM放送局も併設されていて、通りから硝子越しに放送中のパーソナリティーが見えます。
休憩所では、地元のご年配の女性がお茶を出してくれて、聞き出し上手に私の東海道の旅のことを聞いてくれて、私もずいぶんいろいろ話してしまいました。
特筆すべきことがひとつ。
日本橋から草津までずっと歩いてきて、あんなに早く京都三条大橋にたどり着きたいと思っていたのに、もう明日には京都に着いてしまうことが寂しい、と話したら、聞き出し上手なおばさまにこんなことを言われました。
「じゃあ、中山道も歩けばいいじゃない」
中山道は東海道に比べてきついでしょう、と言ったら、ここに立ち寄る中山道ウォーカーは、女性もたくさんいるそうです。
それも、東海道に比べて、中山道の方が年齢層が高い傾向にあるらしいのです。
この時まで、東海道をゴールしたら中山道を歩こうとは、全く思っていませんでした。
でも、中山道に挑戦するのもいいなあ、とちょっとだけ思い始めました。
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そして1年後、中山道をずっと歩いてきて、明日には京都三条大橋にゴールという日にまたこの同じ「くさつゆめ本陣」にやって来て、もしあの時のおば様がいたら、 いえ、あの方はいなくても、誰かに、
「この、ゆめ本陣で励まされて、とうとう東海道だけでなく、明日には中山道も踏破します!」
と、報告したかった。
でも、前回のような世話役の方はいらっしゃらず、自分でお茶を入れて、体が休まったらまた旅に出る、そんな場所に変わっていました。
一年前のゆめ本陣は、夢だったのかなあ。
脇本陣 仙台屋茂八。
今は、土産物店になっています。
【天明七年石標と太田酒造と八百久】
草津街道交流館前にある石標。
江戸時代後期のものだそうです。
正面には、「右 東海道」
右面には、「天明七年五月吉日」
案内板
「江戸時代に江戸と京都・大阪を結んだ『東海道』(当館前の道)。もともと建てられていた場所はわかりませんが、曲がり角や分岐で東海道の道筋を示していたと思われます。右側面に天明7年(1787)の年号が刻まれていることから、現存する道標のなかでは比較的古いものといえます。 」
太田酒造の道灌蔵。
日本酒、ワインの直売や、申し込めば酒蔵の見学も出来るそうです。
太田酒造HPより
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太田酒造株式会社とは
太田酒造株式会社、栗東ワイナリーは母なる湖で農産物を素材に、ワインから日本酒・焼酎まで手掛ける 日本一小さな総合酒類メーカーです。江戸城の築城に携わり、東京の開祖である太田道灌を先祖にもつ創業明治七年の 歴史と伝統のある酒蔵です。太田家はかつて水陸交通の要所として盛えた草津において3代将軍家光の命を受け、 その動静を見守る関守の役目を代々務めてきました。太田家の酒造りは、約130年前の江戸末期にさかのぼります。 当時、所有していた田畑と、その年貢米の近江米を有効に使うために酒造りをはじめました。 酒作りの歴史自
体はそれほど古くはありませんが、草津宿を守ってきた"太田家"としての歴史は古く 先祖には江戸城を築城したことで有名な"太田道灌"がいるため、その名前を使用し道灌という銘酒を造りました。
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「八百久」
くさつ情報ネット 街道物語より
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「 八百久」です。江戸時代から「八百屋久兵衛」という雑貨商を営んでいました。ささら戸・店のつくり、坪庭などなつかしく趣のあるお店で、昭和3年の建物は国の登録文化財にも指定されています 。
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2度目の東海道20日目の2(草津市郊外)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2020/02/07/234240