2度目の東海道7日目の1
4月5日(金)の1
【今日も富士山を見ながら】
2度目の東海道五十三次歩き7日目。
ずっと富士山を見ながら歩きました。
昨日は一旦家に帰って、ダンスレッスンに出ました。
今朝早く家を出て、東海道五十三次歩きの続きを歩きました。
本日は、すごい風で大変でした。
【朝の富士におはよう!】
早朝に家を出て、7:53 富士駅着。
駅のトイレで左膝にサポーターを着けました。
外のベンチでおにぎり二個を食べていたら、鳩がずっと狙っていましたが、やらないよ。
8:14 富士駅を出発。
商店街からこの富士山が見えました。
8:22 昨日のラストの交差点。
8:24 道の反対側に、栄立寺
旧松永家跡などを見ながら進みます。
8:27 札の辻跡
右の背の高い石柱が札の辻跡です。いわば高札場跡なのですが、謂れが富士市HPにありました。
富士市HPより
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【 広報ふじ平成12年】富士の民話 あれこれ
富士本町通りから旧東海道を西へ400メートルほど向かうと、長さ5メートル、幅6メートルほどの「札の辻橋」に差しかかります。
今回はこの札の辻橋について紹介します。
平垣町の札の辻橋
岩本山を背にした実相寺は、今から800年ほど前の久安(きゅうあん)年間に、鳥羽法王の仰せにより建てられたと言われています。当時は「西に比叡山、東の実相寺」とまでうたわれた、全国でも名高いお寺でした。寺には、49院、500の僧坊があり、何百人もの修行僧が勉学し、ここで生活を送っていました。
昔の実相寺の敷地はとても広く、一方一里(約4キロ)あり、その寺領は南は現在の札の辻橋付近まで及んでいたと言われています。このあたりに実相寺の山門のようなものがあり、お寺に参拝に来た人々がこの付近でお札を買ったことから「札の辻」という名がつけられたようです。
一般的に、「札の辻」とは、制令(禁令の箇条を記した立札)を立てておいた辻のことを言い、現在でも地名として残っているところがあります。
平垣町にお住まいの海野 嘉一(かいち)さん
札の辻橋は、大正5年3月に竣工されました。橋にはもともと鉄製の立派な欄干がありましたが、戦争中に、鉄の部分は資源として国に寄付してしまいました。
来年は、東海道宿駅制度が制定されてから400年目になりますが、旧東海道の通っている平垣町も、昔から道路はきれいに整備されていました。橋の周辺も、交通量がふえたくらいで、今と昔とではあまり変わっていませんね。
札の辻のいわれも、語り継ぐだけではいつかは忘れられてしまいます。何か形として残るものをつくりたいと思い、昭和50年、平垣町の有志一同で、橋のそばに札の辻のいわれを示した「札の辻跡」という石碑を立てました。子供たちにもこの由緒ある「札の辻」のことを伝えていきたいですね。
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【天白(てっぱく)神社】
8:31 小さな社があり、境内に写真の道祖神がありました。
8:34 秋葉神社常夜燈
8:36 渡船場跡
8:37 天白神社
富士市HPより
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【 広報ふじ平成11年】富士の民話 あれこれ
富士駅北地区の柚木に天白(てっぱく)神社があります。地域の人たちからは「お天白(てっぱく)さん」と呼ばれています。
今回は、この柚木の「お天白さん」についてご紹介します。
柚木のお天白さん
養老年間(奈良時代)のことです。ある年、柚木村の初穂田(はつほだ)という田んぼに、とっても大きな米粒が3粒、天から降ってきました。米粒の大きさは、長さ一寸八分といいますから今でいう約6センチメートルになります。
村の人たちは、「不思議なことがあるもんだ。きっと、この土地はお米の神様と関係があるに違いない」と米粒の一つを祭って、天白神社と名づけた社(やしろ)を建てたそうです。そして、残りの米粒は、米之宮浅間神社と出雲大社に奉納したということです。
また、天白神社の横には、昔、大きな池があって、人々は 「天白池(てっぱくいけ)」と呼んでいました。この付近にひでりが続くと、村の人たちは、この池で雨ごいのお祭りを行いました。すると急に天空に黒雲がわいて、雨が降ってきたということです。天白神社は、お米の神様を祭っているということから、ひでりで作物がとれないと、百姓たちがかわいそうだというので、神様が雨を降らせたのでしょう。
柚木にお住まいの小中良一(こなかりょういち)さん
今では米粒は残っていませんが、昔からこの地域ではお米がとれたということから、この話が伝えられているのでしょう。
天白池の水は、昔飲み水として利用されていたようです。水はいつか乾き、池は杉林にかわってしまったようですが、杉林によく牛がつながれていたのを覚えています。
また、昭和7年までは境内に飛行機松といって、富士山の頂上からも見えるほどの大きな松が2本ありました。樹齢千年を超す松だったのですが、本殿を修復するのに木を切ってしまおうかと、地域の人たちと相談していたところ、突然枝が折れてしまったのです。とても不思議なことでしたね。
私が子供のころは、学校の行き帰りにみんなで神社に寄ってよく遊びましたね。地域の人たちもよく集まってきてにぎやかでした。今でも毎年10月17日前後の土曜日または日曜日に、盛大にお祭りを行っています。
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8:45 道標・秋葉山常夜燈
右側、道標には、「左東海道」の文字
左側、秋葉山常夜燈は、慶応元年(1865)建立。
8:54 セブンイレブンでトイレを借りました。トイレに胡蝶蘭が飾ってあって、びっくり。綺麗でした。
9:04 明治天皇御休所跡
9:05 水神社
説明板
江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いことと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせ渡船の精度を定め、渡船は岩渕村と岩本村との間で行われました。
東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居中船居、下船居の三箇所あり、川瀬の状況で使い分け、そこがら上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを『船場』と呼んでいます。用いた船には定渡船、
高瀬船、助役船があり通常の渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。
渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(一六三三)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで岩本村が渡船に重要な役割をにないました。
水神ノ森は安全を祈願し水神社を祀り、著名な『東海道名所図絵』に記され、溶岩の路頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の
巨大な雁堤は.ここから岩本山にかけて構築されてます。
このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。
昭和六十年一月十日 富士市教育委員 」
【富士川を渡る】
いよいよ富士川を渡ります。
江戸時代は舟で渡りましたが、今は富士川橋を渡ります。
9:06から7分間かかりました。
建物など遮るものがないので、富士川橋からの富士山は、私は東海道一の富士山だと思っています。
三枚の写真は、富士川橋を渡りきってからの富士山です。
2度目の東海道7日目の2(間の宿岩淵)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/11/07/163753