2度目の東海道五十三次歩き第一日目の3
3月22日(金)の3
【川崎宿】
入ってすぐの左側辺りに、「お江戸日本橋」に「六郷渡れば川崎の万年屋」と歌われた万年屋(奈良茶漬け)があったそうです。
その先、右側に田中本陣跡。(12:38)
川崎宿で一番大きい本陣だったそうです。
暫く砂子(いさご)通りを進みます。
お腹がすいたので、砂子交差点を右に折れて川崎駅方面に少し歩き、ジョナサンでランチ。
ジョナ得ランチ1,099円で、メインディッシュ+アペタイザー(サラダなど)+ランチスープ+ドリンクバー。
メインディッシュは、野菜の旨味!トマトとチキンのヘルシー雑穀カレーにしました。
ドリンクバーの青汁が美味しかった。
トマトチキンカレーが運ばれてきたのが、12:50
13:30頃、ジョナサンを出発。
砂子通りの先を進みます。
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元禄7年(1694)5月、江戸に住んでいた芭蕉は、子の治郎兵衛と共に郷里の伊賀へ旅立ちました。芭蕉との別れを惜しむ江戸の門人の利牛、野坡、袋水は多摩川を渡り、川崎宿まで見送りにきて八丁畷の榎だんごという店で最後の別れをかわしました。この時、芭蕉が詠んだ句が「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。
その後芭蕉は、旅の途中の大阪で発病し、同年10月12日、51歳の人生を閉じ、粟津の義仲寺に葬られました。
芭蕉の著作としては、『野ざらし紀行』や元禄2年(1689)5月8日弟子の曾良を伴って東北地方を旅をしたときのことをまとめた『奥の細道』や『炭俵』『猿蓑』などがあります。
芭蕉が亡くなってから130年後の文政13年(1830)8月、俳人一種が桜井梅室(天保の三大俳家)に揮毫(きごう)してもらい、麦の穂の句を八丁畷に建立しました。
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この
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」
を詠んだ元禄7年(1694年)5月の5か月後の10月12日、大阪で芭蕉は51歳の人生を閉じます。
この句が、芭蕉が関東で詠んだ最後の句。
また、芭蕉句碑が詠んだ場所に立てられたのは数が少ないそうで、この句碑は芭蕉が詠んだ場所に立てられたことでも価値があるのだそうです。
投句箱があったので、一句詠んで投句しようと思いましたが、(句碑の覆い=鞘堂の脇の柱に缶が設置され、缶の中に投句用紙が入っているとのことでしたが、筆記用具は入っていましたが、)投句用紙が1枚も入っていなかったので、レシートの裏に書いて、でも、これを投句箱で見つけた人がゴミだと思って捨ててしまわないように、
投句用紙が入っていませんでしたので、これに書きます。
ゴミではありません。
「芭蕉碑の花に囲まれ古びゆく」
そして、住所と電話番号と名前を書いて、投句箱に入れました。
でも、投句用紙が1枚も入ってなかったってことは、管理がちゃんとされているかどうか。
私は結構あちこちで投句してきましたが、連絡があったのは、袋田の滝の帰りに袋田駅で投句したのが入選し、私の句も載った句集を送ってもらったのが唯一です。
単に落選しただけなのか、投句しても、ちゃんと管理されてないのか。
【市場一里塚跡】
14:11 市場一里塚
一里塚と同じ敷地内に稲荷社
「いちばゝし」の碑
市場一里塚の碑には、「武州橘樹郡 市場一里塚」と書いてあります。
日本橋から五里目の一里塚です。
私が気づいたものという限定ですが、日本橋からここまでの四つの一里塚跡はどこかわからず、この市場一里塚が、私が初めて写真に撮った一里塚です。
14:16 鶴見川橋
2008年9月12日に来たときは、コスモスがいっぱい咲いていて綺麗でしたが、今回は、公園にちょっと菜の花が咲いているぐらいで、写真に撮るほど華やかでもありませんでした。
橋を渡るとすぐに左側に鶴見橋関門旧跡碑がありました。
14:39 京急鶴見駅
初めて東海道五十三次を歩いた2008年9月12日には、18時から会議が入っていたので、帰って風呂に入ることも計算して、歩くのは16時までとリミットを決めていたので、京急鶴見駅がその日の終点でした。
今日の目標は、とにかく鶴見は越えたい。せめて神奈川、でも、出切れば保土ヶ谷まで行きたい。行けるかな。
【国道駅と魚河岸通り】
国道駅の名前の由来は、
「 鶴見線と京浜国道との交点にあることから命名された。京浜国道とは、現在の国道15号(第一京浜国道)の前身である当時の国道1号である。」(wikipedia)
その先、魚河岸通り。昼間はシャッター街です。早朝に来たら、活気があるのかな?
じゃらん観光ガイドより(生麦魚河岸通り)
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この 魚河岸は、とにかく魚介の種類が多くて新鮮。特に貝類は、アサリ、アオヤギが主流で季節によって、カキ、ミル貝、ホッキ貝、帆立、アワビ、平貝、赤貝等々豊富に並ぶ。魚類もマグロからイワシまで、お寿司屋さんの湯飲みにかかれている魚の数くらいはあるのだろう。素人でも気軽に買い物ができる。
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【生麦事件】
15:11 キリンビール前。
ビールの試飲付きの見学は要予約だそうです。
その辺りで生麦事件が起きたそうで、2008年9月16日にここを通ったとき、この辺りにお住まいと思われる男の人が
「東海道を歩いているの?それなら、ここが生麦事件が起きた場所だよ」
と指し示してくれた民家の塀に、看板がありました。
教えてもらわなければ、きっと気づかずに通り過ぎていました。
「生麦事件の碑は、もっと先だと思っていたんですけど」
「碑はね。ずいぶん先にあるんだけど、実際に事件があったのはここなんだよ」
横浜市ホームページより
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「 生麦事件」
文久2年(1862)8月21日、薩摩藩主の父・島津久光の行列が生麦村を通行中、馬に乗って行列に紛れ込んだ4人の外国人の1人、英国商人リチャードソンが警護の武士に斬り殺されてしまった。
幕末の動乱期に起こった外国人殺傷事件は、賠償問題から薩英戦争にまで発展。その後の日本外交に大きな影響を与えた。明治16年、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために私費を投じ、生麦事件碑を建立。地元顕彰会が毎年8月21日に記念祭を行っている。横浜市登録文化財。
生麦事件参考館は、18年かけて集めた生麦事件に関する国内外の資料140余点を展示している私設の資料館。隣には酒の博物館もあります。
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とありますが、生麦事件資料館は2017年5月3日に20年の歴史に幕を閉じたそうです。
何故生麦事件発生の場所と、生麦事件の碑(写真3)が離れているのかというと、リチャードソンが倒れていた場所に、生麦事件の碑を建立したそうです。
15:17 生麦事件の碑
脇には、「石碑が老朽化しているので線香はご遠慮ください」
という表示杭が立っています。
本日の4【神奈川宿】に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2019/10/13/123907