紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2021-04-24から1日間の記事一覧

南宮大社石鳥居

南宮大社石鳥居 案内板 「 南宫大社大鳥居 寛永十九年(一六四二)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居 は約四〇〇両の金で、石屋権兵衛 が建てた。 横幅(内側)四五四・五cm頂上までの高さ七一五cm 柱の周り二二七cm。 正一位中…

垂井宿本陣跡

垂井宿本陣跡 案内板 「 中山道 垂井宿本陣跡 本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。 ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政一二年(一八〇〇)の記録によると、建物の坪数は一七八坪で、玄関や門、上段の間を備え…

東の見付

東の見付 案内板 「 東の見付 垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約四四〇キロメートル、五八番目の宿になります。見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常事には閉鎖したりしました。 ここ東の見付から約七六六メート…

相川の人足渡跡

案内板 「 相川の人足渡跡 相川は昔から暴れ川で、たびた び出水がありました。そのため、 江戸時代には、人足渡しによる渡川 が主でした。 川越人足は垂井宿の百姓がつと め、渡川時の水量によって渡賃が 決められていました。 一方、朝鮮通信使 や姫宮など…

垂井追分道標

垂井追分道標 案内板 「 垂井町指定史跡 垂井追分道標 昭和六十二年四月八日指定 垂井宿は中山道と東海道を結ぶ 美濃路 の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。 追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高…

青墓の芦竹庵と小篠竹の塚

案内板 「 『青墓の芦竹庵 』 牛若丸 (後の義経)は、京都の鞍馬山で修業を終え、金亮吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびようとしました。青墓の円願寺 (円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈りま…

照手姫の水汲み井戸

案内板 「 照手姫の水汲み井戸 昔、武蔵・相模(今の神奈川県)の郡代(郡の代官)横山将監に女の子が生まれ、 照手姫と名付けられ成長しました。 目の覚めるような美人と言うことで世間の評判になりまし た。その話を聞いた常陸の国(今の茨城県)の国司小栗判官…

昼飯町の由来

案内板 「 『昼飯町の由来』 むかし、善光寺如来 と言う仏像が、大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺に納められることになりました。 その仏像をはこぶ人々が、青墓の近くまで来た時は五月の中頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱…

如来寺の由来・善光寺式阿弥陀三尊仏

如来寺の由来・善光寺式阿弥陀三尊仏 案内板 「 如来寺の由来 善光寺如来が、難波より信濃へ向う途中、お昼の供養をした関係から、建久六年に僧の定尊が、村東の花岡山 の上に三尊仏を安置し、名を如来寺としました。後年、織田信長の兵火にあい当地に移り、…

旧早野邸セミナーハウス

岐阜大学ホームページより旧早野邸セミナーハウスコンセプト ・旧中山道沿いの古民家を活用した本学の新たな活動の場 ・古民家の歴史と文化の趣のある空間の継承 ・教育の場、学術研究のフィールドワークの活動拠点 ・歴史的資料等の展示 ・地域へのサービス…

昼飯大塚古墳

昼飯大塚古墳 大垣市ホームページより 国指摘史蹟 昼飯大塚古墳 昼飯大塚古墳は今から約1600年前に築かれた岐阜県最大の前方後円墳です。その特徴は墳丘の長さが150mにもなることやその構造が三段築成となる点、さらには後円部の頂上に竪穴式石室、粘土槨、…

赤坂宿 兜塚

兜塚 案内板 「 兜塚 この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(一六〇〇年九月十四日)、杭瀬川 の戦に笠木村 で戦死した東軍、中村隊の武将野一色頼母 を葬り その鎧兜を埋めたと伝えられている。 以後 この古墳は兜塚と呼ばれている。 大垣市教育委員会 」 案内板 …

赤坂宿 脇本陣(榎木屋)跡

脇本陣(榎木屋)跡 大垣市ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓かつての赤坂宿の脇本陣です。赤坂宿では唯一の脇本陣で、宝暦年間(1751-1764年)以後脇本陣を勤め、問屋と年寄役を兼ね、明治まで及びました。明治維新後、建物の一部が解体され、町役場となりましたが、…

赤坂宿 お茶屋屋敷跡

お茶屋屋敷跡 案内板 「 岐阜県指定史跡 お茶屋屋敷跡 お茶屋とは、江戸・京都の往還に整備された将軍家専用の宿泊施設である。美濃赤坂のお茶屋屋敷は、慶長十年(一六〇五)に完成し徳川家康・秀忠らが宿泊した。 本史跡は、残された記録類や他のお茶屋の事…