紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

2021-04-24から1日間の記事一覧

常盤御前の墓

常盤御前の墓 案内板 「 常盤御前の墓 都一の美女と言われ、十六歳で義朝の愛妾となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若 、乙若 、牛若 の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。 伝説では、東国に走った牛若の行方…

鶯の滝

鶯の滝 案内板 「 鶯の滝 中世(鎌倉・室町期)の山中村 は旅人 も泊まる宿駅として栄えていました。 近世(江戸期)では、関ヶ原・今須宿の間の村として、人足が駕籠や馬を止めて休息した立場や酒屋・餅菓子屋・果物屋・古手屋(ふるてや)等が軒を連ね、活気…

間の宿山中 高札場跡

間の宿山中 高札場跡 案内板 「 高札場跡 当地は江戸から五十八番目の関ヶ原宿と、五十九番目の今須宿の中間に位置し、休憩施設の立場茶屋が設けられていたことなどから、俗に間の宿と呼んでいた。 かつて当山中村は江戸時代を通し、旗本竹中氏の知行地で、…

大谷吉継墓、大谷吉継陣跡

大谷吉継墓、大谷吉継陣跡 案内板 「 大谷吉継墓、大谷吉継陣跡 大谷吉継は、石田三成との友情が名高いが、徳川家康とも昵懇(じっこん)だった。はじめ会津征伐に加わるため、慶長5(1600)年6月に留置の敦賀(福井県)を発ったが、その途中で挙兵の比治を打ち明…

立場

立場 案内板 「 立場(たてば) 江戸時代を通して、旗本竹中氏の知行地であった此処山中村は中山道間(あい)の宿として、酒蔵業をはじめ、十数軒(天保年間)の商人が軒を連ね賑わっていた。 この立場というのは、旅人や駕籠を止めた人足たちが利用する宿間に設け…

矢尻の池

矢尻の池 案内板 「 矢尻の池 (井) 関ケ原宿から今須宿に向かう中山道 のうちでも、不破関・藤川と続くこの 辺りは、『木曽名所図会 』にも描かれ、 歌枕となっていました。 この窪みは壬申の乱 (六七二)のと き、水を求めて、大友皇子軍 の兵士が 矢尻…

大谷吉隆墓の石標

大谷吉隆墓の石標 「墓カード詳細 文化遺産ガード公式ホームページ」より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓大谷吉継(吉隆)の墓国史跡「関ケ原古戦場 大谷吉隆墓」平塚為広碑より山中へ徒歩15分、大谷陣跡より徒歩5分解説 大谷吉継は藤堂・京極隊や反応した小早川隊などと激戦を繰り…

関の藤川

関の藤川 案内板 「 関の藤川(藤古川) この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍(そば)を流れているところから、関の藤川と呼ばれていました。 壬申の乱(六七二)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継(よしつぐ)が上流右岸に布陣する…

藤古川

藤古川 案内板 「 藤古川この川を古くは関の藤川と称し、壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西革には弘文天皇軍が陣し、そこの地区民は銘々の軍を支持したので、前後東の松尾部落は天武天皇を祭って井上神社と号し、川西の藤下、山中部落では、弘文天皇…

不破関資料館

不破関資料館 関ヶ原町歴史民俗学習館ホームページより↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 不破関は昭和49年から実施された発掘調査により、奈良時代に設置された不破関の内容が明らかにされました。館内には発掘調査により出土した土器や瓦、和同開珎など貴重な資料が展示されてお…

不破関跡

不破関跡 案内板 「 町 ・県史跡 (昭四四・六・ニ一、昭四五・四・七指定) 不破関跡 東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関 、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制 下の三関の一つとして、壬申の乱 (六七二年)後に設けられたとされています。 延…

不破関庁舎跡と兜掛石

不破関庁舎跡と兜掛石 案内板 「 不破関関庁舎跡と兜掛石 この辺りに中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約一町(一〇八米)四方の関庁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎が建ち並び、周辺土塁内には…

美濃不破関 東山道と東城門跡

美濃不破関 東山道と東城門跡 案内板 「 美濃不破関 東山道 と東城門跡 美濃不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通り抜けていた。関のここ東端と西端には城門や楼が設けられ、兵士が守り固めていた。日の出とともに開門、日の入りとともに閉門された。また、…

関ヶ原宿 西の首塚

案内板 「 西首塚 関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦いでは、両軍合わせ15万余とも言いわれる兵が集結した。戦死者は諸説あり未だにはっきりしていないが、夥しい数に上ったであろう。 戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に共…

至道無難禅師生誕地・脇本陣跡

至道無難禅師生誕地・脇本陣跡 案内板 「 至道無難禅師生誕地 関ケ原宿脇本陣跡 慶長八年(一六〇三) 本陣職相川家に 生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派 の江戸前期の高僧です。 禅師は国師 の法を継ぎ、宗勢拡大に寄 与され、江戸禅宗…

桃配山

案内板 「 ここの地名 桃配山 壬申の乱の時、大海人皇子 (天武天皇 )が陣を構え兵士に山桃を配り、戦いに勝利したとの故事からここを『桃配山』と言われた。 関ヶ原合戦『徳川家康』は、壬申の乱・天武天皇その故事から桃配山に最初に本陣を構えた。 歴史…

六部地蔵

案内板 「 六部地蔵 六部とは『六十六部』の略で、全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している『人』ということで、厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が『宝暦十一年頃』(一七六一年)この地で亡くなられられたので里人が祠を建てお祀りされたと…

中山道松並木

案内板 「 町指定天然記念物 旧中山道松並木 江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に、松・杉・楓などの並木があって、その木陰は旅人のしばしの憩いの場所となっていました。 しかし、近年虫害や台風などによる松並木の減少が目立ってきました。 そのた…

関ヶ原宿 案内板

案内板 「 関ヶ原宿 中山道58番目の宿場となる関ヶ原宿は今も昔も交通の要所であり、難所の今須峠や北国街道、伊勢街道などを控えて賑わった宿場です。本陣は現存していませんが、脇本陣は当時の面影をとどめています。また『野上の松並木』は岐阜県内の中山…

山内一豊陣跡

案内板 「 山内一豊陣跡 Yamauchi Katsutoyo's Encampment 織田信長の家臣で豊臣秀吉にも仕えた山内一豊は、会津征伐の途上で開かれた小山評定の折、徳川家康の西上に対し、自らの居城である遠江掛川城(静岡県掛川市)の供出を発言し、家康に高く評価されたと…

おしゃもじ塚

案内板 「平安時代の上野介、平忠常の終焉の地『おしゃもじ塚』平安中期、東国の上野介に任命された平忠常は安房の国司を殺害、房総半島を手中にし国家に反抗しました。朝廷は忠常討伐隊を派遣し3年に及ぶ戦闘の末、ついに忠常は降伏し、都に護送されること…

野上行宮跡

案内板 「 野上行宮跡 古代最大の内乱と言われる壬申の乱 (六七ニ)において、大海人皇子は野上 の長者屋敷と呼ばれる小高い小平地に 行宮を興して本営としました。 この地は高操にして、眺望良く、朝 鮮式土器も出土しています。乱後行基 が行宮廃材で南方六…

野上「七つ井戸」

案内板 「 野上『七つ井戸』 ここ野上は、中山道:垂井宿 と関ケ原宿 の間の宿でした。江戸時代の頃から、僅少の地下水を取水して多目的(防火用・生活用・農業用)に利用されてきました。街道筋の井戸は『野上の七つ井戸 』として親しまれ、旅人には、喉を…

垂井一里塚跡・関ヶ原の戦い 浅野幸長陣跡

垂井一里塚跡・関ヶ原の戦い 浅野幸長陣跡 案内板 「 史跡 垂井一里塚 昭和五年十月三日指定 徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(一六〇四)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(四㌔弱)ごとに、五間(約九㍍)四方、…

日守の茶所

日守の茶所 案内板 「 日守の茶所 江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に秋風庵を建てた。それを明治になって、一里塚の隣りに移し、中がを通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。 …

松島稲荷神社の由来

案内板 「 松島稲荷神社 の由来祭神 倉稲魂命 創建 天保十年(一八三九年) 祭事 初午 三月第一日曜日 越 年 篝 火 稲荷は古くから、農耕の神であった。松島稲荷の本社は伏見稲荷 である。この稲荷社は古代に、全国の開拓をすすめた渡来豪族の秦氏 が建てた…

垂井宿 西の見付

案内板 「 西の見付 ここは、垂井宿の西の入口になる西の見付である。現在は、南側のみが昔の面影を伝えている。非常事態が発生した場合は見付を閉鎖し、宿場の安全を図った。 歌川広重作木曽街道六十九次の垂井宿の絵は、この付近から西側を描いている。雨…

本龍寺・明治天皇垂井小休所

本龍寺・明治天皇垂井小休所 日本歴史街道岐阜県十七宿中山道散策ガイドより ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓本龍寺の山門や書院の玄関は脇本陣から移築したものといわれています。 松尾芭蕉は元禄4年(1691)この手の住職規外を訪ね、冬籠もりして「作り木の庭をいさめる時雨か…

垂井宿 小林家住宅主屋

小林家住宅主屋 案内板 「 国登録有形文化財 小林家住宅主家 平成二十五年十二月二十四日登録 当家は、油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治十四年(一八八一)に譲り受け、昭和初期まで『亀屋』の屋号で旅籠を学んできた建物です。 建築された年代ははっ…

旧旅籠長浜屋

旧旅籠長浜屋 観光情報「観るなび」より↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓長浜屋長浜屋は江戸時代旅籠屋として栄えました。天保2年(1831)13代将軍徳川家定に嫁ぐ有姫ら総勢3200名が垂井宿に宿泊したおり、お輿担ぎ23名が泊まったという記録があります。その後鉄道の開通により旅人…