紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

赤坂宿 兜塚

兜塚

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案内板
「 兜塚

 この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(一六〇〇年九月十四日)、杭瀬川 の戦に笠木村 で戦死した東軍、中村隊の武将野一色頼母 を葬り その鎧兜を埋めたと伝えられている。
 以後 この古墳は兜塚と呼ばれている。
大垣市教育委員会

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案内板
「 兜塚 関ヶ原の戦い

この塚は兜塚と呼ばれ、関ヶ原の戦いに東軍として参戦した仲村一栄(かずひで)の家老で、杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母(のいっしきたのも 助義すけよし)が鎧兜とともに葬られたと伝えられている。
東軍は、慶長5(1600)年8月23日に岐阜城を落とした後、中山道赤坂宿に集結。大垣城に集結する西軍と、杭瀬川を挟んで約4キロメートルの距離で睨み合っていた。関ヶ原の戦い本戦の前日である9月14日、徳川家康が赤坂宿に到着し、岡山の本陣に入ると、西軍は予期せぬ家康の到着に動揺したという。
そこで西軍は、石田三成重臣島左近(しまさこん 清興きよおき)の献策を容れ、東軍と一戦を交えて士気を高めるべく、宇喜多秀家の家臣明石掃部(あかしかもん) (全登てるすみ)を後詰めにし、兵約五百を率いて出陣した。左近は杭瀬川を渡ると放火や刈田をして東軍を挑発したため、頼母らが反撃した。頼母の活躍はめざましく、岡山からその用兵を見ていた家康を喜ばせたという。
しかし、左近が退却するふりをして杭瀬川を越え、伏兵とともに反撃に転じたため戦況は一変し、頼母は兵30とともに討ち取られた。とうがんは有馬豊氏(とようじ)が援護に向かったものの西軍に阻まれているうちに、家康が井伊直政本多忠勝らに命じ兵を引かせたため、杭瀬川の戦いは西軍の勝利で終わった。
この日の夜、両軍は関ヶ原へと向かい、翌日の本戦を迎える。 」