紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

関ヶ原宿 西の首塚

f:id:asiandream0804:20210214110251j:plain
f:id:asiandream0804:20210214110308j:plain
f:id:asiandream0804:20210214110331j:plain
案内板
「 西首塚 関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いでは、両軍合わせ15万余とも言いわれる兵が集結した。戦死者は諸説あり未だにはっきりしていないが、夥しい数に上ったであろう。
戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に共されたり戦場に残された夥しい戦死者の処理を命じた。関ヶ原一帯を領していた竹中重門は、その命を受けて死体を埋葬し、東西2箇所に首塚を造営した。
西首塚は、国史跡指定された昭和6(1931)年の官報に、『小塚ニシテソノ上に3本ノ老檜アリ』とある。現在も、高さ2メートル、周囲約30メートルの小塚が残り、往時の姿を偲ぶことができる。明治39(1906)年に建てられた碑に『関ヶ原合戦戦死者胴塚』と記されるように、名のある士から雑兵まで、首のない胴も埋葬されたことだろう。近隣には、名もなき兵士たちのものと伝わる五輪塔が今も残る。
明治時代に行われた鉄道工事(現在のJR東海道線)や、梨の木川改修工事の際には、夥しい数の白骨や刀が出土している。
敷地内の観音堂は寛政5(1793)年に建立され、幾多の修理を重ねてきた。近隣の人々や中山道を行き交う旅人の安全を願う『馬頭観音』や、皆の願いに手を差し伸べる『千手観音』が併祀されている。
戦死者の慰霊と、地域の安全平和を願う行事は、地元住民により今なお続けられている。 」