紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

馬籠城跡

馬籠城跡
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案内板
「 馬籠城跡

この辺りの地名を『丸山』とも『城山』ともいい、ここには今から五百年前の室町時代から『馬籠城(砦)』があったことが記されている。
戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。
天正一二年(一五八四)三月、豊臣秀吉徳川家康両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍のせめあがることを防ぐため、木曽義昌木曽路防衛を命じた。義昌は兵三百を送って、山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は、島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。
天正一二年九月、徳川家康は、飯田の菅沼定利、高遠の保科正直、諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り、馬籠の北に陣地を構えた。
馬籠を守っていた島崎重通は、あまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。
今、三軍が陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを『陣場』という。
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(一六一五)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。 」