紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き19日目の6(馬籠宿から落合宿への道)

二度目の中山道19日目の6
2020年1月7日(火)の6

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【フィールドを行く】

13:35 馬籠宿からフィールドへ
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最近はRPGはやっていないのですが、以前はよく、ドラクエをやっていました。ドラクエでは、町から町の間の草っ原をフィールドと呼び、モンスターが出現します。

馬籠宿を出て田畑の広がる景色を見たとき、フィールドだ!と思いました。モンスターは出てきませんが。

街道歩きは、首都圏や大きな市町は別ですが、宿場町を過ぎるとフィールドっぽくなることが多いですね。

木曾は山道が多いですが、この場所はのどかな田畑でした。

13:36 雪をいただいた山が見える
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13:39 石屋坂標石
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13:39 道標 横屋バス停
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石屋坂標石のすぐ横がこのバス停です。


【馬籠城跡】

13:51 丸山の坂 標石
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丸山の坂 馬籠城があった坂

13:41 馬籠城跡案内板
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案内板
「 馬籠城跡

この辺りの地名を『丸山』とも『城山』ともいい、ここには今から五百年前の室町時代から『馬籠城(砦)』があったことが記されている。
戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。
天正一二年(一五八四)三月、豊臣秀吉徳川家康両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍のせめあがることを防ぐため、木曽義昌木曽路防衛を命じた。義昌は兵三百を送って、山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は、島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。
天正一二年九月、徳川家康は、飯田の菅沼定利、高遠の保科正直、諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り、馬籠の北に陣地を構えた。
馬籠を守っていた島崎重通は、あまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。
今、三軍が陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを『陣場』という。
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(一六一五)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。 」


13:41 石仏石塔群
(庚申塔馬頭観音など)
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【島崎正樹翁記念碑】

13:43 諏訪神社
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13:44 島崎正樹翁記念碑
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島崎正樹翁記念碑 夜明け前 青山半蔵

諏訪神社参道入口右手に島崎正樹翁記念碑が立つ。島崎正樹は、藤村の父で「夜明け前」の青山半蔵のモデルになった人。正樹は、中山道馬籠宿の本陣,庄屋,問屋を兼ねる名家に生まれた。平田篤胤国学に傾倒し、明治時代に入ると木曾山林の解放運動に奔走するが、家産を傾け 失意のうちに発狂し悶死する。次男の広助(藤村の兄)の奔走により明治45年(1912)に建てられた。

13:50 男女双体道祖神
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男女の左右が反対 新しいもの?

私の好きな風景
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正岡子規句碑と新茶屋】

13:56 正岡子規句碑
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馬籠観光協会オフィシャルサイトより

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正岡子規句碑と夕陽の丘(サンセット100選)

「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな 」子規
正岡子規(1867-1902)は明治期の俳人歌人。本名は常規、松山の出身。明治26年東京大学を中退後俳句革新を唱え、さらに「歌よみに与ふる書」で万葉を理想とする短歌革新を唱えた。
 「かけはしの記」には、この句の前に「馬籠下れば山間の田野照稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐蘇の峡中は寸地の隙あらばここに桑を植え一軒の家あらば必ず蚕を飼うを常とせしかば、今ここに至りて世界を別にするの感あり。」と述べている。  この碑は昭和54年9月、馬籠観光協会によって建立された又、この場所は長野県時代に信州サンセット100選に選ばれた。夕陽が最高に綺麗な場所である。あずまやもあり一休みするにはもってこいの場所です。

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ここ、10年前にも来たこと、覚えています。東屋で靴の石をとりました。(雨なので、屋根があるところで)

14:00 謎の神燈(奥に神社?)
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14:02 新茶屋
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この新茶屋の真ん前辺りに、大きな案内板があります。

案内板の一部
「 新茶屋

この辺りの地名を『新茶屋』という。江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を『立場茶屋』といった。かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが、江戸の終わりころに現在地に移った。そのためここを新茶屋と呼ぶようになった。わらび餅がこの茶屋の名物だった。」

新茶屋は現在は民宿をやっています。

民宿 新茶屋ホームページより

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この場所は信濃と美濃の国境に位置し、本陣と本陣の中間地点にあることから立場茶屋と呼ばれ、お茶屋を営んでおりました。
大名行列、皇女和宮、水戸浪士などが通った旧中山道沿いにあり、江戸時代より立場茶屋と旅籠を営んでおりました。
昭和25年より、民宿として営業いたしております。

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kiso-magome.comより

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新茶屋

◆お店より一言
家庭的で気さくな雰囲気でやっています お母さんの真心料理
でおもてなし 予約になりますが「しし鍋」も出来ます。

我家の庭には「芭蕉の句碑」「これより北木曽路の碑」が あり歴史の一部がかいま見ることができます。      
店主

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(後日、夏に娘と木曽路を歩いたとき、この新茶屋に泊まりたかったのですが、新型コロナウィルスの影響で人が営業していないのか、連絡がとれず、実際にやって来て前を通ったときも、営業している様子はありませんでした。)


【新茶屋の一里塚跡】

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案内板
「 新茶屋

この辺りの地名を『新茶屋』という。江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を『立場茶屋』といった。かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが、江戸の終わりころに現在地に移った。そのためここを新茶屋と呼ぶようになった。わらび餅がこの茶屋の名物だった。


『是より北 木曽路』の碑

ここは、長野県と岐阜県の境、木曽路の入り口にもあたる。昭和一五年(一九四〇)七月、当時六八才だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものである。藤村は六〇才ころから自らを『老人』と記すようになった。
この碑は藤村記念館の落成十周年を記念して昭和三二年(一九五七)一一月に藤村記念館建設の実行母体である『ふるさと友の会』によって建立された。


芭蕉の句碑

松尾芭蕉が門人の越智越人を伴って、信州姨捨山の月見と善光寺参りを兼ねて中山道を旅したのは貞享五年(一六八八)のことであった。その旅を『更級紀行』として世に出した。

゛送られつ送りつ果は木曽の穐゛

この碑が建てられたのは天保一三年(一八四二)のことで、このころ岐阜県の美濃地方には芭蕉を祖とする『美濃派』の俳人が多くいて、これらの人々によって芭蕉の供養として建てられたものである。


一里塚

街道の両側に『一里塚』が昔の姿が残っている。江戸幕府は街道整備の一環として一里三十六町と定めて、一里ごとに道の両側に土を盛って塚を築き、塚の上には榎または松を植えて、旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。現在中山道では殆どが失われており、貴重な遺構である。 」

14:02 信濃国美濃国国境(今の県境と違う)
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14:02 新茶屋の一里塚
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案内板
「 歴史の道 中山道 新茶屋の一里塚

 一里塚 とは慶長九年(1604)二月、徳川秀忠 が諸街道を改修する際、日本橋を起点に東海道中山道甲州道中 などの各街道の一里ごと(約三・九km)に築かせた塚のことです。
 これは街道の左右に「方五間」(約九・一m四方)の塚を築き、榎か松を植え、旅人に距離を知らせ、また休息の場でもありました。
 新茶屋の一里塚は天保安政時代(1830~1860)には立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが今回、整備にあたり右に松、左に榎を復元しました。
平成六年 二月
文化庁 岐阜県 中津川市
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今回、とうとう「是より北木曽路」の碑と、芭蕉句碑を見逃してしまいました。

(後日、夏に娘と木曽路を歩き、「是より北木曽路」の碑を娘にも協力してもらって探したら、見つけました。こちらです)
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こちらも8月に来たときに撮った芭蕉句碑。(ちょっと指が入ってしまいました)
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「送られつ送りつ果ては木曽の穐」


この句は、先ほど紹介した「木曽路はきょうも」の2番に引用されています。

木曽路はきょうも」
(2)
梢はるかに緑をかさね
木曽路はきょうも木の香り
陽ざしこぼれて 峠は午(ひる)よ
送り送られ またひとり
旅のうれいも はれてくる


【落合の石畳】

14:03 落合の石畳入り口 謎の看板
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石畳は雨で滑りそう。
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14:05 石畳ではない道を行きました。
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14:07 石畳出口の看板で、さっき見た謎の看板の内容がわかりました。
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案内板
「 定

この道、石畳
遊歩道につき
○単車進入
せざる事

平成十七年十月
中津川観光協会

平成17年の看板があんなに薄れちゃうんだなあ。

平成17年に越県の市町村合併があったんですね。


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案内板
「 落合石畳遊歩道(全長120m)

平成17年2月、当市は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により、新中津川市として誕生し、中山道の宿場も中津川宿、落合宿、馬籠宿の三宿場となりました。
この場所から、旧長野県境までの約120m 間を合併記念事業により、落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備いたしました。
(この事業は、岐阜県からの補助金を受けて整備したものです。)
平成17年10月
中津川市

パスしてしまった石畳を、下側から見上げました。
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8月に娘と木曽路を歩いたときは、この石畳を歩きました。
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【石畳と、中山道大案内板と、なんじゃもんじゃの杜】

その先も石畳。滑らなくて歩きやすい石畳でした。
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14:09 中山道 中津川市内の中山道 歴史の道整備事業
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横長い案内板で1枚の写真では収まらず、3枚に分けて撮りました。その内の、真ん中の1枚。

案内板
中山道

中山道江戸幕府が管轄する基幹道路であった五街道の一つであり、東海道と共に江戸と京都・大阪を結ぶ最も重要な道路で、 その距離は江戸の日本橋から京都三条大橋まで、百三十五里二十四町八間(約532km)ありました。
この道は中部山岳地帯を通り難所が多い一方で、川留めになる河川も少なく渡海の難もないため、姫宮の通行のほとんどが中山道を利用していました。
また、中山道には、参勤交代や西国諸大名を支配するための『政治の道』、江戸と上方を結び、物流や情報が行き交う『経済の道』、絵画や俳諧などを育み街道文化が華やいだ『文化の道』など、さまざまな側面がありました。


中津川市内の中山道

市内には約20kmの中山道が東西に延び、江戸から数えて四十三番目の馬籠、四十四番目の落合、四十五番目の中津川の三つの宿場町がありました。中山道六十七宿の全てが整備されたのは17世紀の終わり頃とされていますが、市内の宿場はそれぞれ新たに造られた宿駅ではなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていました。

馬籠宿

木曽十一宿の最南端に位置する馬籠宿は、町並みが三町三十三間(約386m)ある中山道内でも珍しい傾斜地に設置された宿場町です。度重なります火災のため、往時の建物はほとんど遺っていませんが、道筋や建物の建つ地割は当時と変わっていません。島崎藤村の生家である馬籠宿本陣は、その遺構や隠居所が岐阜県史跡に指定されています。

落合宿

落合宿は信濃国から美濃国に入る最初の宿場町で、宿の長さは三町三十五間(約390m)、宿内は下町、中町、上町、横町に分かれ、家数は約七十戸ほどでした。
新茶屋から落合の石畳を経た落合宿までの道筋(約2475m)と、新茶屋の一里塚、落合の常夜燈、代々井口家が当主を務めた落合宿本陣は、国史跡『中山道』の構成要素となっています。

中津川宿

中津川宿の町並みは約十町七間(約1.1km)、戸数百七十五戸、人数は九百八十人でした。
宿内は、町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、大きく本陣、脇本陣、問屋がある本町と、商家が多い新町とに分かれていました。
皇女和宮が降嫁のために江戸へ向かう際に、中津川宿本陣に宿泊しました。また、幕末に桂小五郎などにより長州藩尊皇攘夷へ方針転換した『中津川会議』の舞台でもあります。


歴史の道整備事業

中津川市は昭和六十三年から平成七年度にかけて文化庁岐阜県の補助を受けて、歴史の道・中山道の整備を行いました。
江戸時代の歴史的な環境がよく残る長野県境からの約1kmを整備対象区間とし、道全体の整備としては石畳の敷設を行い、遺跡の整備としては道の両側に残っていた『新茶屋の一里塚』の修復、また、『休憩所』一基を活用施設として設置しました。
従来から、『中山道落合の石畳』として保存されていた石畳(三ヶ所、延長七十、八m)をつなぎながら復元した約八百四十mの道は、周囲の景観と一体となって、けわしい木曽路とひらけた美濃路の二つの雰囲気をもっています。 」

14:10 なんじゃもんじゃの杜
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案内板
なんじゃもんじゃの杜

・本名をひとつばたごといい、
古世代の依存木である。
・五月中旬頃の開花で、満開時は
樹上が真白になり雪積もった
ような景観を醸す。
・この杜は昭和五十一年落合老人
クラブが植樹したものである。

落合まちづくり推進協議会 」


ヒトツバタゴ wikipediaより

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ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ、一つ葉田子、Chionanthus retusus)とはモクセイ科ヒトツバタゴ属の一種。同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名がある。

なお、別名はナンジャモンジャノキであるが、「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種には、ヒトツバタゴのほかにクスノキ(樟)、ニレ(楡)、イヌザクラ(犬桜)、ボダイジュ(菩提樹)などがあり注意を要する。

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この辺りが十国峠かな?
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14:15 十国峠 山のうさぎ茶屋
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「山のうさぎ茶屋」の看板が掲げられた小屋がありました。「出羽三山神社修験道羽黒派」の標柱もあります。
なぜか、 「中乗り新三」と添え書きされた股 旅姿の絵もあります。

茶屋と書いてありますが、営業はしていないようです。

「中乗り新三」を調べてみました。

旅芝居の専門誌「KANGEKI」より

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仲乗り新三
なかのりしんざ
木曾路を旅する渡世人で、股旅物のヒーローの一人です。「仲乗り(中乗り)」とは、切り倒した木材を筏にして天竜川を下る仕事で、木曽節という民謡にも謡われています。

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【鐘鋳り場跡と山中薬師】

14:18 落合の石畳案内板
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案内板
国史跡 中山道 
平成22年2月22日追加指定
落合の石畳

 この石畳 は、中山道落合宿 と馬籠宿 の間にある十曲峠を歩きやすくするために、石を敷き並べたものです。

 石畳がいつ頃に敷かれたのかは不明ですが『中山道宿村大概帳』には『馬籠境(新茶屋)から中津川まで34町6間(約3.7キロメートル)、道幅2間から3間、尾州より普請』とあり、尾張徳川家がこの石畳を含む区間中山道の維持管理を行っていたことがわかります。

 石畳の構造としては石畳の道幅約4メートルで、1平方メートルあたりに自然のままの濃飛流紋岩が4~6個使われています。石材の形や大きさはまちまちで一定ではないですが、石畳の両側端に石材の直線的な面を外側に並べ、一直線になるように配置されています。

石畳の長さは約840メートルで、その間3ヶ所(径70.8メートル)の、石畳は往時のまま現存しています。その周辺の石畳についても昭和63年度~平成7年度『歴史の道路整備事業』にて修復がされ、中山道の風情を偲ぶことができる場所となっています。
中津川市教育委員会

箱根の石畳よりも、滑らないし歩きやすいです。

14:18 鐘鋳りの場跡(奥に馬頭観音)
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案内板
「 鐘鋳り場跡

 宝永2年(1705)医王寺の梵鐘を鋳造した所から、このあたりは「かねいりば」とか「かねば」と呼ばれている。 」

石畳が終わり、写真のような里の道、といった風情の道を行きます。
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14:28 山中薬師
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案内板
「 山中薬師
浄土宗瑠璃山 医王寺

當山はもと天台宗名刹として栄えたが戦国時代に兵乱にあい法燈は一時中絶したが天文十三年(1544)正誉存徹が再興し浄土宗に転じたという。本尊は薬師如来 で名僧行基 の作と伝えられる。
 又奈良時代聖武天皇 の御代諸国に疫病が流行したので勅命をうけた行基が各地を巡り薬師如来を刻んで安置し病気の治療法を伝授したと伝えられ之医王寺もその一つであると云い三河の国の鳳来寺可児郡御嵩の蟹薬師(願興寺)と並んで三大薬師 の一つである。寺内には薬師如来のほか多くの仏像があり、さらに民間信仰の庚申等安置され往時の信仰の盛大さを物語っている。又医王寺は山中薬師とも呼ばれ古来より子供の虫封じの薬師として名高く人足が絶えない。境内には枝垂れ桜があり、(原木は樹齢三百年の大きなしだれ桜であったが昭和三十四年(1929)の伊勢湾台風で倒れたので今の木が二代目となる)毎年季節になると風雅な花を咲かせ街道を歩く人々の心をなごませたとされる。尚之木は木曽義仲 が京に上る途次手にした桜の枝を逆さに刺したものが根づいたと伝えられている。尚境内泉水のほとりに「梅が香にのっと日の出の山路かな」の芭蕉 の句碑があり、弟子を連れ馬の背にゆられて急峻な木曽路の山峡をどんな思いで旅を続けたのであろう。
落合宿 は中山道の一宿であるから大名や高貴な女性などの通行が多かった特に京都から江戸の将軍家に嫁入る場合等は東海道をさけて中山道を経由した 又善光寺詣りや御嶽講の連中などここから木曽路へ入る人々が旅の安全を祈願しに立ち寄った際には之山中薬師で家内安全 道中無事 無病息災を祈って旅立っていった。 」


【狐こうやく】

山中薬師の案内板の後半
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案内板(後半)
「 又落合宿名物『狐膏薬』は薬師如来の夢のお告げで作られたと伝えられ、當時の看板―

御夢想 狐かうやく 十国峠 医王寺

も残っている。

十返舎一九の木曽街道続膝栗毛六編下巻に
『サア サアお買いなさってござりませ當所の名宝〔狐膏薬〕は道中のお足の痛み、金瘡、切疵、ねぶと はれもの
ところきらわずひとつけにてなおる事うけあい、他に又
〔すいがうやく〕のすいよせる事は金持の金銀をすいよせ、ほれた女中方をもびたびたとすいよせる事奇妙希代おたしなみにお買いなされ』と膏薬の効能をはやしたてて売ったと狐膏薬について書かれている。 」


金瘡=刀、槍など、金属でできた傷
切疵=切り傷
ねぶと= もも・尻など、脂肪の多い部分に多くできるはれもの。化膿 (かのう) して痛む。かたね。(goo辞書より)

enasan-netより

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ズイトンさんのきつねこうやく
 むかし、山中の医王寺に、ズイトンさんというおしょうさんが住んでおったそうな。とても気のいいおしょうさんで、村の人たちはもとより、うら山のきつねやたぬきにも、ズイトンさん、ズイトンさんと大へんしたわれておったと。
 さて、きょうも朝のおつとめをすませたズイトンさんは、庭そうじをやっておった。ズイトンさんも年での、このところ、かがんでいると腰が痛いので、ゆっくりとていねいに庭をはいておったそうな。すると、本堂のうらの方から何やら苦しそうな鳴き声が聞こえてきた。
「キューン、キューン」
 はて、いったいどうしたのだろう。うら手へまわってみると、その声はやぶの中から聞こえてくる。ズイトンさんがやぶをかきわけ行ってみると、何と、一匹のきつねがいかにも苦しそうにうなっていた。
「おおよしよし、どうした、どうした。」
 きつねをそっとだきあげてみると、足に大きなとげがささっているではないか。
「こんなに血が出て、痛かったろうに。」
といいながら、ズイトンさんはその大きなとげをぬいてやった。
「さあ、もうだいじょうぶ。」
 そういうと、きつねは、うれしそうにズイトンさんの顔を見ておったが、やがて、びっこをひきひき山の中へ消えていったそうな。
 この山中の医王寺は、落合と馬籠を結ぶ十曲峠の途中にあって、大へん淋しいところでの、昼間でもきつねやたぬきをよく見かけたそうな。だから、夜なんぞはまさに動物の世界。お寺がまるで動物たちの集会所のようなものでの、いつもちょうどズイトンさんが床に入る頃になると、動物たちがやってきて、
「ズイトン、ズイトン」
と、大合唱になったそうな。
 なに、ズイトンというのはの、庫裏の戸にしっぽをつけて「ズイッ」とこすってから、「トン」とたたくと、「ズイトン」と聞こえるっちゅうわけさ。
 ズイトンさんを呼びだしていっしょに遊ぶつもりやったかしらんが、なにしろ夜中のこと、そんなわけにはいかん。ズイトンさんも初めのうちはなかなか寝つけず困っておったが、そのうち慣れてしまってな、きつねどもがいくらさわいでも、平気で眠れるようになったと。
 さて、ある晩のこと。その日は、夕方近くからゴトゴトと戸をきしませる風が吹いていた。もう秋が近いのか、すきま風が肌寒く感じられての、ズイトンさんは何となく寝つけなかった。きつねのさわぐのには慣れっこになっていたのに、雨戸のきしむ音が気になって、うつらうつらしておったと。
 そのうちに、ズイトンさんは、はっとした。雨戸の音がさっきとはちがう。耳をすますと、
「トン、トン、トン」
と、玄関の戸をたたく音がする。
 これは、いつも私が相手にならんからいたずらがひどくなったのか、と思ったズイトンさんは、ふとんを頭からひっかぶった。けれども、
「トン、トン、トン、ズイトン、ズイトン」
と、まだ聞こえるんやと。
 うるさくなったズイトンさんは、しかたなく起きて玄関へいき、戸を開けてみた。すると、まあ、この間のきつねが、ちょこんとすわっておったと。
「どうしたんだ、こんな風の晩に。」
 びっくりして聞くと、
「おしょうさん、この間はどうもありがとうございました。おかげで傷はすっかりなおりました。お礼に、よく効くこうやくの作り方を教えてあげましょう。おしょうさんは、腰が痛くて困っているのでしょう。」
といっての、ズイトンさんにこうやくの作り方をくり返しくり返し、ていねいに教えてくれたと。
「まず、マムシグサの根っこの、まあるいやつをすりつぶす。そこへオオバコのたねとキツネノマゴの葉をすりつぶして混ぜる。次はモーチを入れてよくねり合わせる。それと油を、布きれにぬりつけて、痛いところにはれば、たちどころに痛みがとれます。」
 ズイトンさんは、きつねの話を聞いているうちに、汗びっしょりになっていたそうな。いつのまにか、床の中で、こう薬の作り方を何回もくり返していっておったと。ズイトンさんがこう薬の作り方を一口いうと、きつねがまくらもとでうなずくというふうに、くり返しくり返しして、とうとうこう薬の作り方を覚えてしまった。
 と、急に部屋の中が明るくなったので、ズイトンさんは、はっと目をさました。あたりを見まわしたが、きつねの姿はどこにもなく、体じゅうがべっとりと汗ばんでおったと。もう、夜が明けていたそうな。
「夢だったのか。」
 でも、こう薬の作り方をはっきり覚えておる。ズイトンさんは、すぐに起きて、きつねの教えてくれたものを集めてきた。そして、ならった通りにしてこう薬を作っての、さっそく自分の腰にはってみると、腰痛がうそみたいにすっとなおってしまったと。
 よろこんだズイトンさんは、さっそく山門に『御夢想 狐こうやく』と看板をあげ、狐の絵もそこへほりこんだと。
 これが、大へんよく効くと大評判になっての、村の人はもちろん、旅人から伝え聞いて遠くからわざわざ買いにくる人が絶えなんだそうな。

文・笠木 由紀子
絵・高橋  錦子


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【落合橋から】

下り坂
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14:31 町の展望。
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眼下に町を見下ろすと、この先ずっと下り坂のイメージ。しかし、、、、

脳裏に、「確か落合は上り坂が凄かった記憶が…」

14:35 落合川 落合橋からの景色 滝がきれい。
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【石仏石塔群など】

14:36 石仏石塔群
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14:37 落合橋の付替えと落合橋 案内板
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案内板
「 歴史の道 中山道

中山道の付替と落合大橋

 落合川にかかる下桁橋は、江戸時代には「大橋」とか「落合橋」と呼ばれ、少し下流にあったといわれています。
 この橋が洪水により度々流失していたこと、またこの橋から医王寺までの登り道がつづら折れの難所であったため、道筋を変更することとなり、寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の新道が中山道となりました。
 しかしこの道も悪路で、今までより約一・八㎞も遠回りになったことから、明和八年(1771)、再び十曲峠を通る前の道筋に戻りました。
 この時につづら折れの道を廃し、現在の北側に大きく曲がって緩やかに登る道に付替られました。
中津川市教育委員会

14:39 木杭の道標
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二度目の中山道19日目の7(落合宿)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/11/075111


二度目の中山道六十九次歩き目次1(日本橋から横川駅)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/17/220947


絵手紙1(日本橋から塩名田宿)
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/18/101022


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003