紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

二度目の中山道歩き19日目の7(落合宿)

二度目の中山道19日目の7
2020年1月7日(火)の7


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この絵は、2020年8月に娘と落合に来たときに描いたものです。


【上町の秋葉様の常夜燈】

14:39 落合の高札場跡
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14:41 分岐左へ
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14:42 枡形
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14:42 上町の秋葉様の常夜燈
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案内板
「 上町の秋葉様の「常夜燈」

・宿場通りには、秋葉様の常夜燈 が
四基あり、戸ごとを回る当番により
灯をともし防火を祈ってきた。
・寛政四年(1792)十二月に建てられ
たが、明治十三年(1880)の道路
整備の際、三基は他所に移された。
・この一基だけが道の片隅に寄せられ
往時の姿を留めている。

落合まちづくり推進委員会 」

14:44 LABORATORY
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【落合宿本陣跡】

14:45 落合宿本陣跡
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落合宿本陣 中津川市観光情報サイトより

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中山道落合宿は、江戸から44番目の宿場町。落合宿本陣は中山道ぎふ17宿の中で唯一本陣が残っており、歴史の面影を感じることができます。

往時の面影を残す貴重な建物であり、平成22年2月、国史中山道の一部として追加指定を受けました。平成29年3月より、毎週日曜日に一般公開されています。

【公開日時】 毎週日曜日 9:00~16:00
【料金】   無料
【その他】  ガイドが案内いたします。

ボランティアガイド

毎週日曜日に落合宿本陣を無料でご案内いたします。畳の間に上がることはできませんが、姿見の障子、殿様が危機から逃れるための抜け穴など、本陣の見どころについて説明いたします。
【受付】   毎週日曜日9:00-16:00まで 落合宿本陣に直接お越しください。
【所要時間】 15分~30分程度
【備考】   日曜日以外の公開・ガイドについてはお問合せ下さい。
【問合せ先】 落合事務所 0573-69-3201 文化振興課 0573-66-1111

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14:45 明治天皇落合御小休所 (本陣)
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14:46 落合宿案内板
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案内板
「 歴史の道 中山道
落合宿

落合宿は江戸から82里12町(約323km)京から52里9町(約205km)の位置にある、江戸日本橋から数えて44番目の宿場町である。落合宿は、江戸側から横町、上町(かんまち)、中町、下町(しもまち)に分けられる。
落合宿の長さは、3町35間(約390m)、家数は75軒を数えた。宿場町の両端に桝形を備え、道の中央に用水が流れ4基の常夜燈が設置されていた。
本陣は井口家が、脇本陣は塚田家が代々務めており、それぞれ問屋を兼ねていた。また、落合宿の庄屋は井口家(千村家(久々利方))と塚田家(山村氏(木曽方))が分担して務めていた。
文化元年(1804)、文化12年(1815)の2度、落合宿は大火に見舞われた。その後築造された土蔵造の落合宿本陣やうだつ、古い民家などに江戸時代の面影を垣間見ることができる。
落合宿西側から落合の石畳を含む新茶屋までの道筋(約2475m)、落合宿本陣、落合の常夜燈、新茶屋の一里塚が、平成22年(2010)に国指定遺跡『中山道』へ追加指定された。 」


【たすけあいの釜 門冠の松】

14:47 たすけあいの釜
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gifureki.comより

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助け合い大釜(落合宿)概要: 大釜(容量1000リトッル、口径約1.5M)は、元々「寒天」の原料である天草を煮る時に利用したものです。文久元年(1861)、皇女和宮が江戸に下向する際、4日間で約26000人が落合宿を利用し、多くの住民が助け合いながら利用者の接待をした故事から、この地に大釜を設置し、日本の伝統的食文化と密接な関係がある道具(大釜)を保存すると共にイベントなどで大釜料理(千人キノコ汁)を参加者に振舞うようにしたそうです。
皇女和宮降嫁行列は総勢3万人、50キロに及び、利用された中山道沿いにある藩は警護にあたり、各宿場は失礼が無いように整備や清掃が行われ、犬猫や家畜などの動物の声や社寺の鐘などにも十分気くばりされました。落合宿では本陣である井口家で和宮が小休止を行なっている為、当日には特に警備が厳しかったと思われます。4日間は行列で随行した従者などが宿泊や休息で利用した為、まさに宿場をあげての「おもてなし」がなされました。

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14:48 善昌寺 門冠の松
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案内板
「 善昌寺の「門冠の松」

・この松は、創建当時の山門を
覆っていたことから門冠の松
と呼ばれている。
・道路新設拡巾・寺の移転等で
根が痛めつけられて来たのか、
凡そ四五〇年の年を経ていると
いわれているが、さほど大きく
なく、宿場の入り口に格好の
風采を添えている。

落合まちづくり推進協議会 」


ここで何故か、スマホがフリーズ !しばし、公園前でスマホ復活を待ちました。

トイレに行きたかったのですが、公園にトイレはありませんでした。

外国人6、7名とすれ違いました。中山道を歩く、欧米系の外国人は多いんだなあ。

14:51 公園前の落合宿案内板
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この後、上り坂。上り坂の途中にお地蔵様。

14:53 向町の地蔵尊
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【おがらん】

14:55 落合五郎兼行の案内板(お伽藍神社下)
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案内板
「 落合五郎兼行

平安時代の終わり頃、木曽義仲の家来であった落合五郎兼行が美濃口の押さえとして、落合に館を構えていたと言われている。
落合五郎兼行は、平家物語巻七寿永二年(一、一八三)、五月の『火打ち合戦』の項に名を連ねているが、出自は中原兼遠の末子である説や、中原氏の一族説等あり、生没不詳で定かでなく、木曽義仲に仕えていたことは事実と思われる。義仲の幼名は駒王丸といい、父源義賢と叔父にあたる義朝との合戦により父義賢が殺されたため、駒王丸は幼少の頃から乳母の夫である中原兼遠のもとて養育された。
諸記録によると、中原兼遠には樋口兼光今井兼平、落合五郎兼行と義仲の妻になる巴の三男一女があり、平家物語の中で、義仲の有力な武将として取り上げられている。
館跡とされている所は、『オガラン』と呼ばれ、『伽藍』(大きな寺院)という言葉からきたと推定され、近くには『小姓洞』という地名も残っている。
実際に兼行が当地の落合に居住していた説に関しては不明な点が多いが、江戸期に書かれた『木曽名所図絵』には、『落合五郎霊社』と案内され、『新撰美濃誌』は、落合氏宗氏跡は駅の西の路傍にあり、『老杉三、四株生い茂るうちに愛宕神社あり』と書かれている。
また、『美濃国御坂越記』には、落合五郎兼行住居の跡地といえども、『兼平か、弟の兼行にてはあるべからざる』と考察している。
兼行の館跡は、後世に文献や地名から推定されたもので、平成元年に行われた発掘調査からは館跡の痕跡は認められなかった。
現在ここは、愛宕神社寛延年間に建立された石灯籠や兼行の顕彰碑等があり、毎年八月には経た例祭が行われている。

平成六年十二月吉日
中津川市
おがらん四社

愛宕神社
山之神神社
天神社
落合五郎兼行神社 」


中津川バイパスを跨ぐ
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「おがらん」道標
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実は、さっきの「落合五郎兼行」の案内板は写真だけ撮って、あまりちゃんと読んでいなかったので、「おがらん」って何だろう?と思いました。お伽藍、なんですね。

スマホは撮った写真の案内板の字もちゃんと読めて便利。

ブログアップ用に容量を小さく抑えるため、ブログにアップされた写真は字が潰れてしまいますが、スマホに納めている元の写真は字がちゃんと読めます。

15:01 中山道を示す金銀砂子(私が勝手につけたあだ名。実際には黄色や白の点々付きの舗装)が途切れたので、ここまでかと思って写真を撮る(実際には、この後また復活しました)
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【落合の裏切り坂】

今まで道筋を示してくれていた金銀砂子の道とお別れしたので、「中山道」の道標が頼りです。
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ガイド本は持っていますが、歩きながら読むのは歩きスマホ同様危険だし、雨で傘を指していると、ほぼ鞄にしまいっぱなしで、どっちだろう?と思ったときだけ出します。(おかげで、見落としたものがたくさんあります)

ガイド本をしまいっぱなしでも大抵道が分かるような道標などがほとんど設置されていますが、時々、何故ここにない?という、あってほしい所にないこともあります。

15:02 水戸浪士 熊谷三郎の墓 この先30m
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案内板
「 水戸浪士 熊谷三郎の墓

 幕末に水戸藩内一派「天狗党」が、攘夷貫徹を訴えるために、京都をめざし落合宿 を通過したおり党紀に違反した熊谷三郎 が惨殺された。
 それを哀れんだ地元の人々により西山墓地に葬り墓碑を建て供養した。 」

15:03 「歴史の道」道標に従って左へ曲がる。

車道を潜り、その先、右後ろに鋭角に曲がる。逆Vの字に右斜め後ろの坂道を上る。
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金銀砂子の道が復活していました。

15:06 急な上り坂始まる。
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10年前に落合宿の記憶はほとんどなく、急な上り坂があった、という記憶のみあったのですが、さっき眼下に町を見下ろしたとき、ずった下りが続くと思ってしまっていたので、急な上りに出逢い、ああ、この記憶がずっと残っていたのか、と思いました。

ところがこの先、急坂を上って急坂を下り、また急坂を上りまた下り、が何度も続き、あまりにも辛くてこの辺りの記憶が飛んでしまっていたのかなあ、と。

下りが続くと思っていたら、突然の急登。さらに激しいアップダウンの連続。これを私は勝手に「落合の裏切り坂」と命名しました。
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二度目の中山道19日目の8(落合宿から中津川宿への道)に続く
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/01/11/104911


二度目の中山道六十九次歩き目次の目次
https://asiandream0804.hatenablog.com/entry/2021/03/21/084003