案内板
妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推察される。妻籠城は、天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝(たかかつ)が籠って、徳川家康の配下の菅沼、保科らの軍勢を退けている。また、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いの時も、軍勢がはいってここを固めたが、元和二年(一六一六)には廃城となった。妻籠城は典型的な山城で、空堀(からぼり)・帯曲輪(おびくるわ)、さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁(さいのかみどるい)という土塁も備えており、規模の大きな構えであったことが知れる。
主郭へは徒歩十分で、北は木曽川と遠く駒ヶ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる。 」