紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

義仲寺

義仲寺

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案内板
「 国指定史跡
義仲寺境内
(大津市馬場一丁目)

義仲寺(ぎちゅうじ)の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角(ろっかく)氏が建立したとの伝えがあります。
門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
『木曽殿と背中合わせの寒さかな』という著名な俳句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句『旅に病んで夢は枯野をかけめぐる』など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
昭和四二(一九六七)年一一月に国指定の史跡となりました。

大津市教育委員会
平成二四(一九九二)年三月 」

石坐(いわい)神社

石坐(いわい)神社

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wikipediaより

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創祀年代は不詳。社伝によると、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連がその4代前の祖・彦坐王茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を、神体山として祀ったのが起源とされる。壬申の乱以降は表向きは八大竜王を祀っていたが、ひそかに天智天皇大友皇子・伊賀采女宅子を祀ってきた。

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大場の桜

大場の桜

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案内板
「 この山桜は、樹齢約二百年の古木です。
旧東海道筋にあり毎年、美しい花を咲かせています。
旧東海道と芦浦街道との分岐点付近にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた古木です。

この桜は、江戸時代には参勤交代で、みやびやかな列をなして、毛槍を振り振り共奴を連れた大名行列が、仰々しく西に東に行きかっていたのを見つめていたことでしょう。

瀬田学区自治連合会
勢多歩こう会
瀬田文化振興会 」

道祖神の由来

道祖神の由来

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案内板
道祖神の由来

この祠には、向かって右側『道祖神』、左側に『大日如来石仏』をお祀りしています。
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前の通路は、旧東海道で古来より交通の要所として賑やかな日々だったと思われます。 平成28年12月に祠を新調し、それまで奥田忠雄宅軒下に祀られていた『道祖神』と『大日如来石仏』を祭祀しました。
特に『道祖神』は頭部のみの石像でしたので、これも寄進者が新調されたものです。 古来より『道祖神』はその地域の発展・振興と安寧、子孫繁栄、交通安全の守り神とし て祀られています。
大日如来石仏』は土地の人の話ではかなり昔、この地が河川?(沼地?)が氾濫した際に奥田宅付近に流れ着いたもので体長30cm×幅23cm×奥行10cmの小柄な石仏です。一般には地蔵菩薩石仏があちこちに祀られていますが、『大日如来石仏』は大変珍しく、年代不詳で道祖神と共にお祀りしていてので、この程移設して広く皆様の守り神仏として参詣願えれば幸甚です。
尚、道祖神と祠の費用は地元の有志の篤志金で新調されました。

平成29年2月吉日 」

大江千里(ちりんさん)

大江千里(ちりんさん)

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案内板
「 大江の千里(ちりんさん)

大江の地を荘園として持っていたと伝えられる『大江の千里』は平安時代前期の歌人で、三十六歌仙のひとりとして、また、百人一首の第二十三首の歌人として著名な人である。
その奥方がこの地に住まいしていた。
村人はその跡地に野上神社(現在は御霊神社のお旅所)を建て、その遺徳を偲んだといわれている。

第二十三首
『月見れば千々にものこそ悲しけれ
我が身ひとつの秋にあらねど』

瀬田学区自治連・勢多歩こう会 」

野路萩の玉川

野路萩の玉川

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案内板
「 『 野路萩の玉川』

 『野路 』は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅 として栄えた所である。  源平争乱の時代ここ野路は、數多くの武将の宿陣となり時には火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。  
ここ萩の玉川 は多くの歷史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり都から公郷、貴族、詩人等しばしばこの地を訪ね景勝をめでて、多くの詩歌を詠んだ中でも千載集 (1188 年)所載の源俊頼 の作
 『あすもこん 野路の玉川萩こえて
 色なる浪に 月やどりけり』
は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記 (阿仏尼 作)には
 『のきしぐれ ふるさと思う袖ぬれて
 行きさき遠き 野路のしのはら』
と詠んだ。十禅寺川 の伏流水が清らかな泉となって湧きいでてあたり一面咲匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵 によく描かれいつの頃か歌碑も建てられた。  
その後野路宿が草津宿に移り、次第に玉川も亦さびれる運命となった。
近年は泉も涸れ形も 小さくなり、風情は一変した。かっては天下の名勝萩の玉川も わずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時  我等地元住氏は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次来である

昭和五十一年十一月二十八日
草津市野路町 」

野路の玉川 古き宿駅 野路駅 の名残り

野路の玉川

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案内板
「 古き宿駅
野路駅 の名残り

野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、『平家物語 』をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝 が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川 と東海道が交わるあたりには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
千載和歌集 』の源俊頼 の歌に
 あすもこむ 野路の玉川 萩こえて
 色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には、『近江名所図会 』や歌川広重 の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。
 付近には重要文化財 の本殿 がある新宮神社 をはじめ、野路小野山製鉄遺跡 など多くの歴史遺産が所在する。」
草津八大名所 」

平清宗胴塚

平清宗胴塚

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案内板
「 平清宗 (一一七〇 ― 一一八五)

平安後期の公卿、平宗盛の長男。母は兵部権大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位待従右衛門督であった。
源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年檀ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。
吾妻鏡』に『至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗』とあり。
当家では代々胴塚として保存供養しているものである。

遠藤権兵衛家
当主 遠藤 勉 」

矢倉立場

矢倉立場

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案内板
「 矢倉立場

 東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿南 に続く矢倉村 。立場 とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の『うばがもち』を売る店があった。
 この地に、そのうばがもちがあり、歌川広重 の浮世絵や『東海道名所図会 』『伊勢参宮名所図会 』などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。
 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る『矢橋の渡し 』の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。旅人は、俗謡に『瀬田に廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅』と詠まれ、旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。
 そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で『急がば廻れ』の語源になったところでもある。
武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(『醒睡笑 』)と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら、遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したものである。
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│寛政10年(1798)道標 │
│ (草津市指定文化財 ) │
│『右やばせ道 これより廿五丁 │
│  大津へ船わたし』 │
└────────────────┘

立木神社境内にある石造道標

立木神社境内にある石造道標

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案内板
「 市指定文化財 石造道標一基

24.0cm × 17.5cm × 213.0cm
江戸時代 (延宝 八年 = 一六八〇年)
指定年月日 昭和五十七年十二月六日

『刻銘』
(南面) 伊勢大神宮 延宝八庚申年
(カーン) 七ヶ年中履行月参詣願成就所 みぎハたうかいとういせミち
山城愛宕山 十一月吉日
(西面) 京みぶ村 ひだりは中せんたうをた加みち万宝院 あしたの行者

刻文よりこの道標は、東海道中山道 との分岐点である草津宿
中央部に位置する追分 の地に建てられていたことがうかがわれ、現在の草津追分 に建てられている文化 十三年銘石道標 (一八一六年)
の前身のものと推定されます。
道標の建立年代は、『延宝八庚申年』(延宝八年 = 一六八〇)と
刻銘にあり、滋賀県下で最も古いものです。
建立の背景については、京都壬生村のあしだの行者万宝院 という
人物が、伊勢太神宮と山城愛宕山 (愛宕神 )への七年間毎月の参
詣成就を記念・感謝して建てられたものと推定されます。

近江名所図会 に見られる草津追分
東海道名所図会 に見られる草津追分

草津市教育委員会

立木神社

立木神社

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LINEトラベルJP 旅行ガイドより

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立木神社が創建されたのは第48代の称徳天皇の頃、767年といいますから今からおよそ千二百年以上もの歴史を持っていることになります。

茨城県常陸の国にある鹿島神宮から白鹿に乗り旅に出られた武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、安住の地を求めて奈良へと向かわれた折にこの場所に立ち寄られました。そして持っていた柿の枝の鞭を地面に突き立て、この木が生え着いたならば自分は末永く大和の国の三笠の山にとどまることとなるであろうと言われたのですが、 やがてその鞭は根付き、武甕槌命は今の奈良にある春日大社の祭神となりました。

やがてこの柿の木を崇める人たちにより神殿が建てられ、そのいわれから立木神社と呼ばれるようになりました。その故に、この本殿の前をはじめこの神社の各所には鹿の像が置かれ、境内の一角には今も代を移しながらも柿の木が植えられているのです。

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太田酒造 草津宿 と政所

草津宿 と政所

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案内板
草津宿 と政所

 草津宿東海道五十三次の宿場の中でも大宿で水陸交通の要所でもあることから関所的な役割を担ってきました。
 草津宿でこの付近一帯は、政治的な中心地として、宿場における旅に必要な馬や人足の用意をしたり、宿の管理を行う問屋場 がありました。併せて東海道筋では三ヵ所しか置かれていなかった荷物などの重量検査を行う貫目改所 も設置されていましたので太田家を中心とするこの付近は、草津の政所 (まんどころ)と云われてきた所以です。 」

草津宿 石造道標

石造石標

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案内板
「 石造道標
江戸時代後期
草津市蔵・うばがもちやコレクション

(正面) 『右 東海道
(右面) 『天明七年五月吉日』

江戸時代に江戸と京都・大阪を結んだ『東海道』(当館前の道)。もともと建てられていた場所はわかりませんが、曲がり角や分岐点で東海道の道筋を示していてと思われます。右側面に天明7年(1787)の年号が刻まれていることから、厳存する道標のなかでは視覚的古いものといえます。 」

草津宿 吉川芳樹園店舗兼主屋

吉川芳樹園店舗兼主屋

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案内板
「 吉川芳樹園店舗兼主屋
登録有形文化財
建築年代 江戸末期

平入り正面上部の虫籠窓風の意匠や漆喰(しっくい)で塗り込められ出桁(でげた)などが町屋らしい雰囲気をかもし出しており、鬼瓦には文政13年(1830)の銘が見られます。街道に並行した切妻造の背面で、棟が直交するT字形の屋根形式となっており、草津宿の町屋にみられた特徴を持っています。
草津宿には、本陣が2軒、脇本陣が時代によって2~4軒ありましたが、この家は脇本陣藤屋与左衛門家にあたります。
草津市教育委員会

草津追分 石造道標

石造道標

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案内板
草津市指定文化財(有形民俗文化財)
石造道標『右東海道いせみち 左中仙道美のぢ』一基
江戸時代
昭和四十八年十月十五日指定

この道標は、東海道中山道が分岐合流する草津宿の要所に文化十三年(一八一六)三月に建てられた火袋付の道標で、現在の高さは三九二.二センチを測り、江戸時代に東海道中山道を行き交う多くの旅人の道しるべとなっていました。
道標竿部南面に『右 東海道いせみち』、西面に『左 中仙道美のぢ』と東海道中山道の行先が刻まれています。
また、基礎部北面、南面、西面に京都、大阪、尾張、岐阜などの飛脚問屋、宰領中や江戸、播州備前の日雇方などの道標寄進者の名前がみられます。
なお、草津四丁目の立木神社境内には延宝八年(一六八○)に、この草津追分に建てられた県内最古の道標があるほか、草津宿および草津宿周辺には多くの道標が残っています。  
平成二十年三月三十一日
草津市教育委員会