紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

草津追分道標

草津追分道標
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案内板
「 道標
市指定文化財
道標『右東海道いせみち』
『左中仙道美のじ」』一基

ここはかっての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。 トンネルのできるまではこの上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。 しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人にとっては大切な目安でもあった。 多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化十三年(一八一六)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(四.四五メートル)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上、はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。

昭和四十八年十月十五日指定  
草津市教育委員会 
昭和五十一年贈草津ライオンズクラブ

草津川の渡し場

草津川の渡し場

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案内板
草津川の渡し場 Kusatsu River Crossing Points

草津川 は土砂の混入と堤防の決壊を繰り返すうちに、周囲の土地より川底が高くなった『天井川 』です。

草津川 の成り立ち Origins of the Old Kusatsu River

この草津川跡地公園 は、平成14年に流路の付け替え工事が完成し、廃川 となった旧草津川を整備したものです。天井川であった旧草津川が、いつ頃からこの場所を流れるようになったのか知る由はありません。江戸時代に草津宿が設置されると、旧草津川の堤防整備や、川底の浚渫(しゅんせつ)などが行われるようになりました。
江戸時代 中ごろより、上流の荒廃した山々から土砂の流出が続き、長年に渡り土砂が堆積したことにより、川床が周辺民家の屋根よりも高くなる天井川化が進んだことは、歌川広重 の浮世絵 からもうかがえます。江戸後期には、草津川の川底が高くなり、
中山道口 から草津川堤防への上り坂が急になったため、脇道の造成を膳所藩 に願い出ています。
草津川は、雨が降らないと水の流れない砂川 でしたが、一旦大雨になると、堤防の決壊を招くほどの水が流れる川でした。

草津川の渡し場 Kusatsu River Crossing Points
草津宿は、江戸時代に東海道中山道の合流する交通の要衝として栄えました。これら二つの街道は、江戸方面から草津宿への出入り口が、それぞれ草津川の渡し場になっていました。
中山道 の渡し場は、追分道標 (東海道中山道の分岐点道標 )の近くで、草津宿 の江戸側の出入り口に位置し、現在の市道宮町渋川線(商店街通り)のマンボ (トンネル)の上あたりにありました。また、東海道の渡し場は、草津宿東離の横町道標の近くで、草津宿の江戸側の出入り口に位置し、現在の市道大路16号線あたりにありました。
草津川は、川底が周辺民家の屋根よりも高い天井川であり、普段は、水の無い砂川でした。そのため、「徒歩渡り 」といって水の無い川底を歩いて渡り、少し水が残っているところは、簡易な板が進されていたようです。
天保3年(1982)の『橋銭川越賃定書』によれば、水が無くても、1人3文の川越賃 が徴収されていたとの記録があります。水が流れている時は、人に担がれて渡りましたが、水高に応じて、1尺(約30cm)で8文、1尺5寸、2尺、2尺5寸と、段階的に増加して、3尺で32文の川越賃を徴収され、時には、川留め になることもありました。
天井川の渡し場は、草津宿の特徴的な光景として、数多くの浮世絵や名所図会に描かれており、時の様子がうかがえます。

歌川広重東海道五拾三次 之草津
(草津市蔵、中神コレクション)

歌川広重画 木曽海道六拾九 次之内
草津追分 (草津市蔵)

草津市
Kusatsu City 」

伊砂砂神社

伊砂砂神社

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案内板
重要文化財 伊砂砂神社本殿

草津市渋川一丁目

一間社流造、檜皮葺   室町時代

伊砂砂神社の草創は明らかでないが、名称は明治二年からのもので、古くは天大将軍社と称された。 建物は棟札により応仁二年(一四六八)に建立され、元禄四年(一六九一)に修理を受けていることがわかる。 軸部は当初材を良く残こしているが、軒廻りや縁、高欄、脇障子などの造作材は、大正時代の修理によるものである。 小規模な一間社であるが、母屋は内部を内外陣のニ室に区画し、正面に向拝を付ける。 組物は三斗組、妻飾りは豕扠首組として、母屋には三方に縁、高欄を巡らし、脇障子か取り付く。 この本殿は建立年代が明確で、木割が細く、正面の建具を吹寄せ格子戸とするなど軽快な建物で、室町時代後期の本殿建築を知るうえで貴重である。  

平成六年三月 
滋賀県教育委員会

草津歴史街道 中山道

草津歴史街道 案内板

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案内板
草津歴史街道 中山道

中山道木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。 その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御獄・駒ヶ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ケ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。 草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(旧草津川)を越えて草津追分に至った。 なお、中山道分間延絵図によれぱ、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、名所が街道沿いに存した。  

草津市教育委員会

灯心草舎 中村畳店

灯心草舎 中村畳店

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Gift Netより

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中村畳店

いつも畳を感じていたい

滋賀県草津市にある、90年余り続く老舗の畳店です。
二代目の店主当主中村明雄は屋号を「灯心草舎」と名付け、本物の畳がもつ温もりと、そこから生まれる日本文化 を大切に伝えていきたいと考えています。灯心草とは畳の原材料である「イグサ」の別名 で、イグサの芯を取り出し、昔の行灯やろう そくの灯心に使われたことに由来します。こ の灯心草のように日本文化の灯りを灯し続け る企業です。
先日、伝統建築工匠の技;木造建造物を受け継ぐための伝統技術として、畳製作がユネスコ無形文化遺産に登録されました。フランス では日本様式を取り入れることを「タタミ ゼ」と言うそうです。今後も畳の魅力を発信 し続けます。

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大宝村大字綣元標について

大宝村大字綣元標について
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案内板
「 大宝村大字綣元標について

元標(げんぴょう)は道路元標ともいい、道路路線の起点や終点などを表示する標識であります。
各市町村に一つづつ置かれるもので、石材その他の耐久性材料を用いて、里程や市町村名が記載されているものです。
この元標は『大宝村大字綣元標』と刻まれることから、道路元標と云えますが、同時に大津市元標や栗太郡役所などからの里程をも示しており、里程標を兼ねたものだといえます。
官公庁として大正15年(1926)に廃止された栗太郡役所、及ぴ昭和29年(1954)に移転した草津警察署からの里程を示すのはもちろん、京都伏見の第十六師団指令部や、大津駐屯の歩兵第九連隊(大正14=1925年に伏見へ移転)といった陸軍官庁からの里程も明らかにしており、建立時の時代背景をよく示しています。

<読み方と意昧>

 (正面)
大津市元標を距てること、四里十八町三十間五尺。(約17,730m)
栗太郡役所を距てること、二十四町三十一間四尺。(約2,700m)
草津警察署を距てること、二十九町二十五間。(約3,200m)
大宝村大字綣元標。

 (向って右側面)
第十六師団司令部最迫より、九里八丁(町)十二間五尺(36,200m)
大津第九連隊最迫より、四里三十町十三間五尺(約19,000m)

 (向って左側面)
東は大宝村大字野尻より、十一町六間三尺、(約1,200m)
南は大宝村大字苅原より、八町四十間一尺、(約950m)
西は大宝村大字北中小路より、五町二十一間三尺、(約590m)
北は物部村大字二町より、四町五十八間三尺、(約540m)

 (裏面)
大正六年二月十五日建設、奇附・西田哲太郎 」

佛眼寺の歴史

佛眼寺の歴史

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案内板
「 佛眼寺の歴史

当佛眼寺は、もと大寶神社内にあって、古名大寶山神應院神宮寺と称して、天台宗に属していました。 應永十九年(西暦一四一二年)五月神運再建本尊は阿弥陀如来とし、佛眼寺と改称して七世珠阿上人となりました。 應永二十七年(一四二○年)三月時宗四條派本山金連寺七代淨阿上人代に末寺と定められる。 元亀年間(一五七○年)に兵火に遭い、天保六年(一八三五年)再び火災にあって、明治十四年に再建したもので、その後百三十余年を経て平成十四年四月に本堂並びに地蔵堂を新築再建いたしました。 御本尊は秘物の立像で脇段安置の阿弥陀如来座像は栗東市文化財の指定を受けております。 また、地蔵尊(六体地蔵)は霊験あらたかな『眼そ良くするお地蔵さん』として、昔から地域の多くの皆様から親しまれ、お詣りいただいております。 鐘楼堂の建設は平成十九年十二月に地域の安寧と幸福招来の為、『平和と幸福の鐘』として再建しました。 総本山は、神奈川県藤沢市『藤沢山無量光院清浄光寺』で、宗祖は一遍上人であります。

平成二十四年仲秋
時宗 大寳山 佛眼寺 」

綣のいわれ

綣のいわれ

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案内板
「 綣のいわれ

ここは栗東市綣です。
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│綣の地名のいわれ│
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○綣には弥生時代から各時代の遺跡が多数あります。 また、近くには縄文時代下鈎遺跡弥生時代の伊勢遺跡があります。 綣には遺構、遺物より弥生時代後期の頃から人々が定住し農耕生活を営み始め、次第に集落が形成されたと考えられます。
○周辺にも同様の集落が出来、文字がない時代に各集落を分別するたが当時の人々により、この地を『へそ』という呼び名が付けられ呼称されていたとらしいと考えられますが何故『へそ』なのかは定かではありません。

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│綣の漢字のいわれ│
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文字(漢字)が伝来し『へそ』の集落の呼称名に、人々が考えた漢字が『綣』であります。
伝承されている『いわれ』の主なものは
○この地では布を織るための糸づくりが盛んで、植物繊維から糸を紡ぐとき糸を巻き取った球状の物を『へそ』と言った事から『糸』を『巻』くの二字を一字にして『綣』となったと言われています。
○『へそ』の北に隣接する荘園の木綿園庄では、木綿の材料となる楮の栽培が盛んで、『へそ』では楮から糸を紡ぎ紡錘に巻き取り『へそ』にしていたことから『綣』となったとも言われています。
○『へそ』の小字の花園にあった花園院極楽寺に帝に縁のある高貴な女性が住み、都の思い出にひたりながら糸を紡いで機を織っていましたが、機を織るときに使う紡いだ糸を巻き取った『へそ』に因んで『綣』の地名になったと言われています。

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│史料で見る綣の地名│
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○綣の地名が史料で最初に見られるのは、京都市東山区天台宗門跡寺院青蓮院(しょうれんいん)に 伝わる寛喜元年(西暦1229年)の青蓮院文書『十楽院門跡領目録』に綣村保の 伝領経緯が記されている文書です。
○諸説がありますが、 万葉集巻一の十九の『綜麻形(へそがた)の林のさきの狭野棒(さのはり)の衣(きぬ)につくなす目につくわが背』(原文は万葉仮名)この歌は額田王(ぬかたのおおきみ)が近江に下った時、一行の中にいた井戸王(いのへのおおきみ)の歌と言われています。この『へそがた』の『へそ』は当地『綣』である と言う有力な説があります。近江大津宮への遷都は西暦667年であり『へそ』は当時存在していたのではないかと思われます。
平成24年12月
特定非営利活動法人
街道をいかしたまちづくりの会 」

芭蕉句碑の由来

芭蕉句碑の由来

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案内板
芭蕉句碑の由来

この句碑は、栗太郡内唯一の芭蕉の句碑です。
元禄三年(一六九○年)頃、関東、北陸方面に旅した帰りに綣村の立場に足をとどめ、旅の余韻と惜春の情を托して詠まれた句と云われています。

『へそむらのまだ麦青し春のくれ』 はせを
句意は『ずっとあちこちと旅して歩いてきたが、ここ綣村あたりの麦はまだ青い。 種蒔きがおくれたのか、寒かったのだろうか。 もうまもなく春も暮れようとしているのに・・・・』というものです。 芭蕉の句碑は、滋賀県内に九十三本を数えますが、この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていて今後の研究課題の一つとされています。  
平成十二年三月(西暦2000年) 
創意と工夫の郷づくり事業により移転整備 綣行政区 」

住蓮房母公墓の由来

住蓮房母公墓の由来

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案内板
「 住蓮房母公墓の由来

今より八百年前、鎌倉時代当時の仏教は『貴族仏教』ともいわれており、権力者や貴族たちのものでありました。 ところが法然上人は未法の時代にあって、すべての人は平等であり、『南無阿弥陀仏』に救われると説いたので、新興階級の武士や農民、あるいは救いの対象からもれていた女性たちに広く受け入れられ、『念仏仏教』が大変な勢いで広まっていきました。 法然上人(後に土佐の国に流罪)の説く専修念仏がひろまるにつれ、古くからある仏教教団は、新興の法然上人の教えを、国家の秩序を破り道徳を乱す者と決めつけ、元久元年(一二○四)『専修念仏停止』を時の権力者である後鳥羽上皇に訴え出た。 このような事態の中でも、住連坊・安楽坊は別時念仏会を開きました。 両上人を修する浄土礼讃声明に魅了され、出家して仏門に入る者さえあった。 そんな中に後鳥羽上皇の女官、松虫姫・鈴虫姫がおられました。 両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗、教養も豊かであったことから、ことさら上皇の寵愛をうけた。 おりもおり、紀州熊野へ参詣の間に、両姫の決死の出家の願いにより住蓮坊は松虫姫(十九歳)を、安楽坊は鈴虫姫(十七歳)をそれぞれ剃髪、出家得度させた。 このことを知った上皇は激怒し、この出来事を一つの口実として、専修念仏教団の弾圧を企てた。 建永二年(一二○七)住蓮坊は近江の国馬淵(現在の 滋賀県近江八幡市)、安楽坊は京都六条河原(現在の東本願寺近く)において打ち首の刑に処された。 住蓮坊に朝子という母公がおられ、我が子が捕らえられた悲しみで盲目となられ、いよいよ死罪に処される前に、一目逢いたいものと馬淵をめざして、中山道を急がれましたが、途中で住蓮坊上人がすでに首を打たれたと聞き、 最早この世に生きながらえる望みなしと思い、当地焔魔堂町の池(尼ヶ池)に身を投げてお亡くなりになりました。 母公の法名を『住然』と言い、当家の屋敷内に母公の墓があり、又住蓮坊の首を打った刀を所蔵しておりましたが、延寶五年(一六七七)大宝神社(栗東市綣)に奉納してあります。 縁あって、代々墳墓を守りしております。 お墓はこの奥にあります。ご自由におまいりください。 」

今宿の一里塚跡

今宿の一里塚跡

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案内板
滋賀県指定史跡 
今宿一里塚 江戸時代

今宿一里塚は五街道の一つである中山道の一里塚で、江戸日本橋から本県草津宿までに一二九ケ所あった一里塚の一二八番目にあたります。 一里塚は江戸幕府により慶長九(一六○四)年に整備されたもので、一里毎に道の両側に五間四方の塚を築き、榎や松を植えて通行の目安としたものです。 県内には中山道の他、東海道朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還などに設置されていましたが、明治以降、交通形態の変化による道路拡幅や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなりました。 今宿一里塚は規模は小さくなっていますが南塚のみ残り、榎が植わっています。先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、脇芽が成長して現在にいたっています。 今宿一里塚は、往事を偲ぶことのできる中山道守山宿の中にあり、近世交通史を知る上で重要な遺跡といえます。  

平成十年三月 
滋賀県教育委員会

本像寺 石の長者 木内石亭の墓所

本像寺
石の長者 木内石亭墓所

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守山市ホームページより

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本像寺

「石の長者」ゆかりの寺院

中山道の町並みにある、静かなたたずまいの寺院・本像寺は木内石亭<キノウチセキテイ>(1724-1808)にゆかりが深い場所で、石亭の墓や「奇石(珍しい鉱物や石などのこと)」があります。

石亭は本草学<ホンゾウガク>(動植物や鉱物に関する学問)を学び、幼少期から奇石を収集・研究しつづけて「石の長者」とも呼ばれるほどの石好きでした。同氏は愛好家仲間を広い範囲に持ち、その中には円山応挙<マルヤマオウキョ>(1733-1795)も含まれていたといわれます。また、寛政9年(1756)の『東海道名所図会』に紹介されるほど著名でもあり、奇石を分類して紹介した著作は日本の鉱物学・考古学に深く影響を与えました。

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樹下神社

樹下神社

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shigatabi.comより

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樹下神社(守山市)概要: 樹下神社は滋賀県守山市今宿町に鎮座してる神社です。樹下神社の創建は延久3年(1071)に勧請されたのが始まりとされます。寛永年間(1624~1645年)に社殿が再建、吉川の大洪水で大破し明治15年(1882)に現在地に遷座しています。当初は十禅師宮と称し神仏習合していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され樹下神社に社号を改称しています。日吉大社大津市坂本)に鎮座する樹下神社は本社にあたり、祭神である稲田姫命を祭っています。
樹下神社境内に安置されている安産石は伝承によると延喜元年(902)、菅原道真が政争に敗れ大宰府に左遷された際、家族も連座し信州に流される途中、当地を訪れると息女の1人が急に産気付きます。村人達は篤く手当てしましたが、その甲斐もなくその息女は亡くなってしまいます。息女は死ぬ間際、看病してくれた村人に感謝し、今後、私と同じ様にならないにと平石に念を送り息を引き取りました。その後、妊婦がこの平石の下の砂を身に付けると不思議と安産になる事から信仰の対象となり何時しか安産石と呼ばれるようになったと伝えられています。

石造常夜灯は天保2年(1831)に豪商伊勢屋佐七が願主となり関係する多くの商人から浄財を集め建立したもので花崗岩製、高さ4.41m、守山市指定文化財、当初は「土橋」の橋詰にありましたが、明治時代初期の吉川の洪水際に現在地に移されています。境内にはその他に守山停車場線道(県道156号)道標などがあります。
樹下神社本殿は一間社流造、檜皮葺。
拝殿は入母屋、桟瓦葺、妻入、桁行1.5間、梁間2間。
祭神:櫛稲田媛命。

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守山停車場線道(県道156号)道標

守山停車場線道(県道156号)道標

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案内板
「 守山停車場線道(県道156号)道標

この道標は、明治45年(1912)に営業が開始されたJR守山駅(旧 日本国有鉄道 東海道線 守山駅)と、中山道(旧 国道)を結ぶ 守山で最初の道路『守山停車場線道路』の完成を祝って、江畑栄太郎氏が発起人となり、中山道から駅への入り口(現 今宿町交差点信号)の右側に建てられた。

守山駅の開業にあわせ、明治45年3月17日 栗太郡物部村の村会で『今回守山駅停車場新設セラレシモ 之ニ通ズル物貨運輸ノ道路ナキニヨリ 明治四十五 年度ニ於テ 前記道路ヲ新設セントス」として議案を上程、この道路の新設が決議された。
当時の物部村今宿は 吉身と共に江戸より67番目の中山道最終の宿場、守山宿(本町)の加宿として栄えていたことから、駅への貨客の集積通行に最適地であるとして、この地に道路の建設が決まった。

道路の計画から完成に至るまでが短期間であったことから、物部村の地元 今宿・勝部の地域の人たちの、物心両面での多大な協力と苦労が偲ばれる。
守山の近代化に貢献した誇れる記念碑として、復元し この地に設置する。

平成22年(2010)11月吉日

今宿商工会 街路灯協力会 樹下神社」

守山宿 土橋

土橋

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守山市観光物産協会ホームページより

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土橋

中山道の守山本宿と加宿(今宿)との境の吉川に架かっています。旧・栗太郡と旧・野洲郡の境界でもあり、川が木材運搬の運河だった江戸時代の古文書によると当時は長さ20間(36m)幅2間(3.6m)もあり、修理費用などは公儀=幕府の負担で行われたそうです。

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