紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

綣のいわれ

綣のいわれ

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案内板
「 綣のいわれ

ここは栗東市綣です。
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│綣の地名のいわれ│
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○綣には弥生時代から各時代の遺跡が多数あります。 また、近くには縄文時代下鈎遺跡弥生時代の伊勢遺跡があります。 綣には遺構、遺物より弥生時代後期の頃から人々が定住し農耕生活を営み始め、次第に集落が形成されたと考えられます。
○周辺にも同様の集落が出来、文字がない時代に各集落を分別するたが当時の人々により、この地を『へそ』という呼び名が付けられ呼称されていたとらしいと考えられますが何故『へそ』なのかは定かではありません。

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│綣の漢字のいわれ│
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文字(漢字)が伝来し『へそ』の集落の呼称名に、人々が考えた漢字が『綣』であります。
伝承されている『いわれ』の主なものは
○この地では布を織るための糸づくりが盛んで、植物繊維から糸を紡ぐとき糸を巻き取った球状の物を『へそ』と言った事から『糸』を『巻』くの二字を一字にして『綣』となったと言われています。
○『へそ』の北に隣接する荘園の木綿園庄では、木綿の材料となる楮の栽培が盛んで、『へそ』では楮から糸を紡ぎ紡錘に巻き取り『へそ』にしていたことから『綣』となったとも言われています。
○『へそ』の小字の花園にあった花園院極楽寺に帝に縁のある高貴な女性が住み、都の思い出にひたりながら糸を紡いで機を織っていましたが、機を織るときに使う紡いだ糸を巻き取った『へそ』に因んで『綣』の地名になったと言われています。

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│史料で見る綣の地名│
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○綣の地名が史料で最初に見られるのは、京都市東山区天台宗門跡寺院青蓮院(しょうれんいん)に 伝わる寛喜元年(西暦1229年)の青蓮院文書『十楽院門跡領目録』に綣村保の 伝領経緯が記されている文書です。
○諸説がありますが、 万葉集巻一の十九の『綜麻形(へそがた)の林のさきの狭野棒(さのはり)の衣(きぬ)につくなす目につくわが背』(原文は万葉仮名)この歌は額田王(ぬかたのおおきみ)が近江に下った時、一行の中にいた井戸王(いのへのおおきみ)の歌と言われています。この『へそがた』の『へそ』は当地『綣』である と言う有力な説があります。近江大津宮への遷都は西暦667年であり『へそ』は当時存在していたのではないかと思われます。
平成24年12月
特定非営利活動法人
街道をいかしたまちづくりの会 」