紗蘭広夢の俳句と街道歩き旅

二度目の東海道五十三次歩きと二度目の中山道六十九次歩きのブログを書いています。今、中断していますが、俳句も書いています。

十八屋(間家)

十八屋(間家)
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案内板
「 十八屋(間家)

江戸中期に園田大学が建てたと伝えられており、上がり框や天井の梁などは当時のままである。屋号を十八屋山十といい、中津川の豪商であった間杢右衛門家の流れをくむ間武右衛門が移り住み、旅籠を営んでいた。同時、旅籠は宿役人しか営むことができなかったと記録されている。
元治元年(一八六四)十一月に水戸天狗党が中津川を通行した際、和田峠の戦で負傷した若き武士を隠し部屋に匿った。その後、武士は病死したが、当家にはその遺品が今も残されている。皇女和宮の下向の時には、京都御供が宿泊しており、その時の記録には当家の間取りなどが克明に調べられている。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

栗蔵 栗菓子 川上屋

栗蔵 栗菓子 川上屋

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川上屋ホームページより

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木曽路の風味を創り伝え続けて百有余年
川上屋の歴史は、初代原四六(はらしろく)が中山道宿場町中津川宿で江戸末期の1864年(元治元年)よりはじまり、
交通の要所として東美濃随一の宿場町として栄える中で恵まれた土地から生み出される産物を使用し、
こだわりの風味逸品を創り歴史を重ねて参りました。

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町並みと枡形

町並みと枡形
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案内板
「 町並と枡形

中津川宿は江戸日本橋から数えて四十五番目の宿駅で、本陣、脇本陣、庄屋、二軒の問屋場が置かれていた。武家は常に軍旅にあるとの考えから、主人が休泊するところを本陣といい、家臣が宿泊するところを下宿といった。
本陣は中津川でも最も高い場所に置かれ、水害などの災害にあうことはなかった。大名などが休泊する場合は常に敵の攻撃に対する防御や退却方法が考えられており、自身番も置かれていた。横町から下町にかけて町角を直角に曲がる枡形は、人為的に造られたもので、本陣や脇本陣のある宿駅の中心部が直線的に見渡すことができないように造られていた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

常夜燈

常夜燈
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案内板の(石碑)
「 常夜燈

この石燈篭は、中津川宿本町にあったもので、嘉永元年(1848)に建てられています。
常夜燈は、一晩中灯りをともして旅人を導き、また宿場や道中の安全を祈願したものであります。
その灯りは当時の人々の心を和ませるとともに、防犯と照明を兼ねた街灯の役目を果たしていました。

中津川市

大坂屋(吉田家)跡

大坂屋(吉田家)跡
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案内板
「 大坂屋(吉田家)跡

江戸時代から昭和十二年(一九三七)まで、この場所には大坂屋という旅籠があった。主に商人向けの旅籠で、他にも檜笠、屋根板などの白木物の仕入れや、販売を行っていた。
『伝馬役人名簿』には大坂屋善左衛門の名前があり、中津川宿の伝馬役人三五人のうちの一人で、歩行役の半分を請け負う宿内の有力者であった。
文久二年(一八六二)の皇女和宮下向時の宿割図には、『八畳二間、六畳三間、三畳、四畳三三坪、板の間が五間半、土間七坪』とあり、当時の屋敷の規模をうかがえる。
画家の吉田耕雲は大坂屋の生まれで、結婚後京都に出て肖像画学校を開いた。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

ギオンバ

ギオン
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案内板
ギオン

中津川の代表的な祭りの一つに、『ギオンバ』がある。津島神社のお祭りで、子供たちが提灯を持ち『ワイショ』『ヨイショ』の掛け声とともに町中を練り歩く。駒場津島神社の祭神は町内中山道筋の小さな祠に分社されている。
ギオンバは明治時代の後半に旧中津川の市街地で始まり、それが駒場など周辺地域に広がって、第二次世界大戦時には、中津川の子どもたちの代表的な祭になったと考えられる。
当時は喧嘩祭りとも呼ばれる激しいもので、小学生から中学生までの男子が参加し、準備から運営までをその子どもたちが行った。昭和の終わり頃からは、女子も参加する祭りとなった。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

中津川の和菓子

中津川の和菓子 f:id:asiandream0804:20210112144959j:plain
案内板
「 中津川の和菓子

『栗きんとん』は中津川の名物として知られる。茹でた栗の中身を取り出し、細かくほぐしたものを、茶巾で絞った菓子である。中津川は山栗が多く収穫されたことから、江戸時代には焼き栗、茹で栗、かち栗などいろいろな食べ方をされてきたが、砂糖が家庭で手に入るようになると、栗きんとんが作られるようになった。
また、この地方の名物『からすみ』は、米の粉を主原料として黒砂糖やよもぎを入れて練り上げ、富士山を模った木型に入れて蒸しあげた菓子である。江戸時代にはひなまつりの時に、一般的なボラの『からすみ』が手に入れなかったため、代わりにこれを備えたという。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

中津川の食文化

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案内板
「 中津川の食文化

5月、6月の季節、モクレン科の落葉高木であるホオノキの葉に、酢飯と様々な具を包んだ朴葉寿司は、中津川市周辺で見られる独自の食文化である。
朴の葉は1枚が大きく、殺菌作用があることから、もともとは畑仕事の昼食に、手が汚れていても片手で食べられるように作られたとも言われる。
古くは北陸から入ってくる塩鮭を酢でしめ、そのしめた酢で酢飯を作り、乗せただけのシンプルなものであった。
今では家庭により、鮭のほか、金糸玉子や、きゃらぶき、しいたけ、桜でんぷ、ヘボ(蜂の子)など、様々な具材を乗せた色鮮やかな朴葉寿司が作られている。

平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

「宿場町の用水」

「宿場町の用水」
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案内板
「 宿場町の用水

このあたりが中津川宿の中心であった。四ツ目川には水面近くに板橋がかかっており、東から来た旅人はこの橋を渡って、本町まで急な坂道を登った。登りつめると、街道の真ん中を用水が走っていた。宿の中心部を流れるこの用水は、野中の黒沢川から取水した第三用水(大樋用水)で、宿内の大災に備えて敷設されたものである。用水には、ものを流すことも洗うことも、禁じられていた。広義の生活用水、防火用水として使用されていたと考えられる。
明治十三年(一八八〇)の明治天皇通行の折、馬車が通れるように用水は埋め立てられた。
平成二十七年十二月
本町中山道景観協議会
中津川市

中津川村庄屋跡

中津川村庄屋跡
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案内板
中津川市指定文化財

名称 「曽我家住宅」
種目 有形文化財(建造物)
指定年月日 平成十七年一月二十六日
所在地 中津川市本町二丁目 六番四十四号
由来
建設年代は不明であるが、構造体の部分は江戸中期にさかのぼると推定される。

曽我家住宅は、江戸時代においては旧中津川村の庄屋を務めたこともあった肥田家(田丸屋)の建物であり、数寄屋がかっている『上段の間』の細工がよく、そこからの庭の眺望も素晴らしい。

明治二十六年には恵那山登山のため来訪した登山家ウォルター・ウェストンが宿泊している。

明治中期に曽我家が入居し、医院として用いて近代医療に貢献した。

中津川市
中津川市教育委員会

中津川宿 本陣跡

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案内板
「 中津川宿本陣

本陣の入口には五軒続きの長家が建ち、その中央の一軒分が門となっていた。門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、その奥に建坪二八三坪の本陣があった。
表庭の右手に長屋があり、その奥が厩(馬屋)になっており、表門の正面は内玄関と縁三間半の荷置場があった。その奥が台所、貴人一行自らが調理した所や御膳所があった。その奥が勝手向きで、勝手の諸施設や多くの部屋もあった。
表庭の左手に中門があり、その右に番所も置かれ、庭は高塀で囲まれていた。玄関の奥には玄関の間、ついで三の間、次の間、中の間、上段の間へと続いた。上段の間は九畳で、床の間を設け、備後表で大紋縁付きの上畳が二畳おかれていた。上段の間には湯殿、上り場、雪隠(せっちん)などがついていた。裏も庭となり高塀で囲われ、御退道の門戸があり、非常の時は近くの大泉寺へ避難できた。」

すや本店

すや本店

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すや本店 中津川観光協会公式Webサイトより

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栗菓子のふるさと中津川市で江戸時代より続く老舗”すや”。栗とほんの少しの砂糖で作られる栗きんとんや、栗こごり、栗羊羹など、変わらぬ味をお届けいたします。

美濃中津川、町の中を旧中山道が通っている。
木曽路の入口にあたる古い宿場町である。
中津川の町は、町のどこを歩いても恵那山が見える。2191mのこの秀麗な山は、美濃と信濃とを分ける分水嶺だ。
この山の上に、刷毛で刷いたような雲が流れると、美濃路のはてに秋がはじまる。
幾筋も波打つように横たわる丘陵には、野萩が紅い花をつけ、やわらかな芒の穂が風にそよぐ。
そして広大な恵那山麓のいたるところに栗の毬が笑みほころびはじめ、
中津川新町の古い菓舗“すや”に、一年のうちでもっとも忙しい季節がめぐってくるのである。
良寛の書から拾ったという「すや」の二文字 (※1)、その木曽けやきの大看板を掲げるこの店は、
中津川でも、一、二の旧家として知られる家だ。
栗きんとんの箱に貼られている版画風の絵は、わらぶきの茶店を描いているが、
建物はそんな姿で江戸後期の宝暦頃から、中山道に面して立っていた。

創業は元禄年間。
江戸から下ってきた一人の武士が、この宿場町に住みつき、「十八屋」の屋号で酢の店を開いた。
赤井九蔵というその人が“すや”の初代である。中津川宿の酢は、中山道でも有名だったらしく、
享和二年(1802)に、中山道を大阪から江戸へ下っていった大田南畝(※2)は、
この宿場に酢をひさぐ「十八屋」があることを、『壬戌紀行(じんじゅうきこう)』の中に書き留めている。
“すや”の現在の建物は、南畝が通ったときすでに建っていたわけだが、
彼も、この酢屋が百年後に菓子屋に変わろうとは思ってもみなかったことだろう。
(※1)良寛のいろはの書から倣たものでございます。(※2)大田南畝 おおた・なんぼ(1749-1823)
江戸後期の狂歌師・戯作者、江戸の人。名は覃。
別号は蜀山人・四方赤良。有能な幕臣でもあり、広く交遊をもち、天明調狂歌の基礎を作った。
編著「万載狂歌集」、咄本「鯛の味噌津」、随筆集「一話一言」など。(大辞泉)

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高札場跡(茶屋坂)

高札場跡(茶屋坂)
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案内板
「 高札場について

江戸時代には、禁制、法令等(制札)を板札に墨書きし、民衆の注目を引きやすい所に掲げて、その周知を図りました。
この制札(高札)を建てた場所を高札場といい、中津川宿での高札場は茶屋坂にありました。
その位置は、この案内板に向かって左約40m隔てた道路左側にあり、高札は道に面して掛けられていました。
高札場に掲げられた高札は、年代によって内容、札数等はそれぞれ異なりますが、ここに掲げられてあるものは、正徳元年(1711)に公布された高札の複製で、その文言は、中津川宿本陣の記録に残っているものを今様に読み下し文にしました。
どうか昔を偲ぶよすがとしてください。 」

中山道中津川宿

中津川宿案内板

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案内板
中山道ぎふ17宿

江戸日本橋から京都三条大橋まで六十九宿〔百三十五里二十四町八間(約五百三十二キロ)〕。この中山道の四分の一相当の百二十八キロが美濃国、つまり岐阜県です。十六の宿場を持つ美濃中山道は、山間を通る道程で木々や渓谷に四季折々の自然の美しさがある街道です。
木曽路馬籠宿は、景観を保存した観光地として賑わいをみせています。

中津川宿

木曽路の玄関口として栄えた、江戸の日本橋から数えて四十五番目の宿場で街道情緒をよく残しています。その中でも曽我家住宅(市指定文化財)などの建物には、防火用あるいは身分の象徴(裕福な家にしか設けられない)ともいわれる『うだつ』が見られます。
昔から和菓子が有名な宿場町で、中津川が発祥の地の『栗きんとん』をはじめとした栗菓子・和菓子は、今も多くの方に親しまれています。 」

元矩碑

元矩碑

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案内板
「 (1) 元矩碑(もとのりひ)

間半兵衛元矩(はざまはんべえもとのり)が詠じた歌詞を取り入れ、七代 間鷲郎(わしろう)が親族一同に図り(はかり)父の三年祭に当る、明治27年(1894年)8月26日に建てた顕彰碑(けんしょうひ)であります。
(ひとやね に 半 = やまばん)の六代目を継いだ元矩は、中津川の戸長(こちょう)を8年、初代町長を2年。約10年にわたり町村の行政をにない、当高円寺を開いた中の一人であり、園内に、父秀矩碑、(土の右上に点)衛(ひじもり)碑を建てたのち、49歳の若さで世を去りました。
扁額(へんがく)は、天神(てんしん)碑と同じ中納言菅原為栄の書であり、撰文を認めたのは熱田神宮の大宮司、角田忠行であります。忠行は小説『夜明け前』に暮田正春の名で登場し、その行動を詳しく伝えております。 」